3人目の皇帝・ウィテッリウス
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「ローマ内戦 (68年-70年)」の記事における「3人目の皇帝・ウィテッリウス」の解説
勝利を収めたアウルス・ウィテッリウスはそのままローマへと入城した。前述の第1軍団ゲルマニカ、第21軍団ラパクスに加えて第1軍団イタリカ、第5軍団アラウダエ、第15軍団プリミゲミナ、第1軍団マクリアナ・リベラトリクス、第3軍団アウグスタの強大な軍事力を背景としたウィテッリウスの前に元老院もなすすべはなく、帝位を与えることを即座に認める。しかし、ウィテッリウスはそもそも帝位を得た後の政策について明確な方針もなく、単に軍団に御輿として担がれただけの皇帝であった。ウィテッリウスが皇帝であった時代は、前の世代の人材が随所で活躍していたので行政面での問題が少なかったが、結局ウィテッリウス自身が新たに定めた法律などは一つもなく、即位後の彼の事績として残されているのは一日の食費が10万デナリウスも要したなどのみである。 ウィテッリウスのローマ入城の際には市民の間にもさしたる動揺はなかったが、やがて日が経つにつれてゲルマニア兵の素行の悪さがローマの治安の悪化に繋がるようになった。また、第一次ベドリアクム会戦でオトー側についたドナウ軍団のケントゥリオ(百人隊長)たちを全員処刑したことで、ウィテッリウスの人気は急激に低下する。ローマ軍団の兵士とはローマ市民権を持つローマ市民でもあり、前皇帝であったオトーの命令に忠実に従うという軍団兵の義務を守っただけの彼らが処刑されたことで、多くのローマ市民は新皇帝に対する不信感を強めた。 ローマの混乱が続く中、シリア属州でユダヤ戦争の指揮を執っていた将軍ウェスパシアヌスが新たに帝位に名乗りを上げた。ウェスパシアヌスはローマにとって最大の敵国であったパルティアに対する備えとして設置された4個軍団を配下に収めた。さらに、今までガルバを支持していたアフリカ属州の第3軍団アウグスタ、第1軍団マクリアナ・リベラトリクスがウェスパシアヌスを皇帝として支持、またアエギュプトゥスの総督であったティベリウス・ユリウス・アレクサンデルが明確にウェスパシアヌスの支持を表明、当時地中海最大の都市であったアレクサンドリアの富を背景にして足場を着々と固めていった。 他方で、バタウィ族出身のガイウス・ユリウス・キウィリスが反ウィテッリウス・親ウェスパシアヌスを掲げてゲルマニアで挙兵。バタウィ族やブルクテリ族といったゲルマン系以外にも、トレウェリ族やリンゴネス族等のガリア系部族も糾合してウィテッリウス支持のライン川一帯のローマ軍基地を次々と攻撃した。
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