2008年シンガポールGP
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「フェルナンド・アロンソ」の記事における「2008年シンガポールGP」の解説
フリー走行でトップタイムを記録するも、予選はマシントラブルにより15位に終わる。決勝ではタイヤ交換を行った直後に同僚のネルソン・ピケJr.がクラッシュし、セーフティカーが導入。これに乗じてトップに浮上し、その後もセーフティカーが導入されトップチームに追い上げられるも巧みに押さえ込みルノー復帰後初勝利を果たした。2周目でドリンクボトルが故障したため、2時間近く水分補給が出来なくなるアクシデントを抱えていた。
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2008年シンガポールGP(クラッシュゲート)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:42 UTC 版)
「チームオーダー」の記事における「2008年シンガポールGP(クラッシュゲート)」の解説
F1史上初のナイトレースとなった2008年シンガポールGPでの事例。ルノーのネルソン・ピケJr.が14周目のターン17においてチーム側の指示により意図的なクラッシュを喫し、これによりチームメイトのフェルナンド・アロンソへの作戦が有利に働き、優勝を果たした。当初は予選15位からの、そして当時のルノーの脆弱性からみて優勝はおろか入賞すら絶望的な局面からの優勝はアロンソを大いに祝福し、ピケJr.に対しても偶発的なクラッシュが計らずもアロンソの上位進出に大いに貢献したと賞賛した。ところが、その後の多くのレースでピケJr.のレースがチーム側が満足出来る形でなかったという理由で、翌年の2009年のシーズン途中ハンガリーGPを最後に解雇された。その約1ヶ月後、ブラジルのテレビ局ヘジ・グローボの中で、昨年のシンガポールGPでのクラッシュは意図的なものであったと発言。当初は、この事件が解雇に対する腹癒せであるかのように風評したが、後にピケJr.本人が7月30日にFIAに対し供述書を提出していた事が分かった。供述によるとチーム首脳陣のフラビオ・ブリアトーレ、パット・シモンズ、そしてピケJr.との三者間で事前に、クラッシュを行う場所や周回数を打ち合わせたとされる。事実、アロンソは11周目にピットに入り、その3周後のターン17においてピケJr.はクラッシュをした。この「予定通り」のクラッシュによってコース上にマシンのパーツ破片が散乱し、又、ストリートコースでもあった為、セーフティカーが導入されるのが必至だった。各マシンがピットに入る前にセーフティカーが導入されれば、先にピットに入ったアロンソが有利になるという公算となり、そのチーム側の思惑通りの結果をもたらしアロンソが優勝を果たした。事態を重く見たFIAは世界モータースポーツ評議会の臨時会議にルノー首脳陣を招聘することをプレスリリースで表明。供述書の内容、ターン17におけるピケJr.のテレメトリデータ(明らかにアクセルを過剰に踏み込み、意図的なスピンをしているのが分かる)、あるいは無線内容や命令に従わない場合は解雇などの措置を取るという脅迫じみた内容など状況証拠が揃っていた。しばらく、ルノー陣営とピケ父子との争いがあったが、9月16日にルノーは事実上罪を認め、ブリアトーレとシモンズがチームから離脱したことを発表。ブリアトーレはF1界から永久追放処分、シモンズは5年間の追放処分を受けたが、後に2012年までの謹慎処分に緩和された。
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