2002〜2005年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 05:39 UTC 版)
「シャルリー・エブド」の記事における「2002〜2005年」の解説
2002年11月、哲学コラムニストのロベール・ミスライ(フランス語版)が『シャルリー・エブド』にオリアーナ・ファラーチの著書『怒りと誇り』を称える記事を掲載した。特に、「(ファラーチ氏は)殺人行為を犯すイスラム原理主義者に抗議するだけでなく、……イタリア、フランスなどの欧州諸国の世論でまかり通っている否認に対しても抗議している。我々は、イスラムが西欧に対して十字軍を派遣しているのであって、その逆ではないという事実を認めようとしないし、これをはっきりと非難することもない」と書いたことで物議を醸すことになった。当時、「人種主義に反対し諸民族の友好をめざす運動 (MRAP)」が『怒りと誇り』はイスラモフォビアだとして発禁を求めていたのである。このような記事を掲載した『シャルリー・エブド』も一部の読者から批判され、翌週、記事を撤回することになった。 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以来、一部の極左は反米感情から米国に加担せず、したがって、イスラム原理主義者を非難しなかったため、『シャルリー・エブド』はこのような極左と一線を画すようになった。こうした立場は、特に2003年11月にイスラム学者タリク・ラマダン(ムスリム同胞団創設者ハサン・アル=バンナーの孫)を招いてサン=ドニで開催された「欧州社会フォーラム」において第三世界主義的の左派との対立を生むことになった。フィリップ・ヴァル(フランス語版)は『シャルリー・エブド』2003年11月15日号の社説で、一部の左派がタリク・ラマダンに媚びていることに憤り、「戦前の欧州に蔓延していたレトリックとそっくりだ……いかにして平和と民主主義が失われていくかを知っているすべての人々にとって、危機感を抱かせるレトリックだ」とナチズムのレトリックになぞらえ、タリク・ラマダンは「反ユダヤ主義的プロパガンダ」を行っていると非難した。フィリップ・ヴァルはまた、特にシオニズムと人種主義政策が同一視されたダーバン会議(2001年に南アフリカのダーバンで開催された国連の第3回「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」)に言及して、一部の左派が人種差別撤廃と言いながら実は反ユダヤ主義的な立場を取っていると主張した。社会学者フィリップ・コルキュフはこの新たな方向性を『シャルリー・エブド』を離れた理由の一つに挙げている。 こうした内部対立にもかかわらず、『シャルリー・エブド』では常にそれぞれの意見が尊重され、非常に多様な意見が掲載された。『アラキリ』以来の表現の自由の尊重である。特に2005年に欧州憲法の批准の可否をめぐる国民投票が行われた際には、カビュ側はOUI、カヴァナ側はNONと意見が真っ二つに分かれたが、編集部として意見の統一を図ろうという提案はなかった。
※この「2002〜2005年」の解説は、「シャルリー・エブド」の解説の一部です。
「2002〜2005年」を含む「シャルリー・エブド」の記事については、「シャルリー・エブド」の概要を参照ください。
- 2002〜2005年のページへのリンク