2度目の躍進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 02:38 UTC 版)
ナポレオン、そしてウィーン会議の時代から、ゲオルク・ヴィルヘルム伯(1807年以降「侯」に昇格)統治下の小邦シャウムブルク=リッペ伯(侯)領は領土を拡大していない。経済基盤の脆弱なシャウムブルク=リッペの当主達は「石材産業」を、その経済の基本に据えた(p. 11)。ゲオルク・ヴィルヘルムは鉄道ミンデン - ハノーファー線の建設に100万帝国ターラーを投資した。その結果、この路線はビュッケブルク市の辺縁部を通ることとなった。シンケル様式の駅舎と城館とは、領主が通るにふさわしい幅広の道で結ばれた。かつての土塁は、その機能を喪失し、市域はその外側へと拡大していった。増加する交通量に対応するため、ゲオルク・ヴィルヘルムの治世中に3つの市門とマルクト広場の泉が撤去された(pp. 11- )。また、1874年にはハルル丘陵にイーダ塔が造られた。この塔はゲオルク・ヴィルヘルムの妻イーダの願いを承けて造られたものである。この建設には貧民層の住民が参加し、賃金とパンを得ることができたのである。1858年にはルイーゼ・フォン・フィンケが設立したベーテル病院の基礎ができあがった(p. 127)。 ゲオルク・ヴィルヘルムの子息アドルフ・ゲオルク侯の時代にビュッケブルクにはプロイセンの駐屯地が設けられた。ウルメンアレーとベルクドルファー通りの間に、ヴェストファーレン第7猟兵大隊「ビュッケブルガー・イェーガー」の兵舎が1867年に建設された。この名称は、現在2つのオーケストラの名称に転用されている。この兵舎から遠くないウルメンアレー沿いにギムナジウム・アドリフィヌムが1874 - 76年に建設された。アドルフ・ゲオルク逝去の年にはさらに2つの大規模な建設プロジェクトが開始された。城館の大規模な拡張工事がなされ、現在の姿となった。また、病院の向かいに、いわゆるヘルミーネ宮殿が建設された。この宮殿は堂々たる居館、オランジュリ、そして2004年に修復されて初めて一般開放されるようになった(2004年9月3日付け)イギリス式景観庭園を有する大規模な複合体である。次代のシャウムブルク=リッペ侯ゲオルクは1894年にヘルミーネ通りの新行政庁舎で議会を開いた。現在この場所には司法センターがある。ノルトハルルのウルメンアレー、アドルフ通り、リュリング通り、ヘルミーネ通りの間に裕福な市民の大邸宅が並ぶ住宅地が設けられた。1906年にマルクト広場に面した新市長舎が完成した。 こうしてビュッケブルクは19世紀末には、北ドイツの文化中心地の一つであり、軍事都市であり、また宮廷所在地として行政・官庁都市でもあった。1904年時点で、この街の人口は5,625人であった(p. 110)。しかし、工業的な発展はほとんど見られなかった。ビュッケブルクにもいくつかの企業は存在していたものの、経済的な面においては近隣のシュタットハーゲン(鉱業)、オーベルンキルヒェン(鉱業、ガラス工場)、リンテルン(ガラス工場)に後れを取っていた。市の北端を通るミッテルラント運河の建設も経済効果はなかった(pp. 14-17)。
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