ゲオルク・ヴィルヘルムの治世(1619年 – 1640年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:02 UTC 版)
「ブランデンブルク=プロイセン」の記事における「ゲオルク・ヴィルヘルムの治世(1619年 – 1640年)」の解説
ヨハン・ジギスムントが死去すると、息子ゲオルク・ヴィルヘルムがブランデンブルク選帝侯とプロイセン公に即位した。ゲオルク・ヴィルヘルムはザクセン選帝侯領のオーバーザクセン・クライス(英語版)における主導権を破ろうとしたが、失敗に終わった。ブランデンブルクとザクセンの敵対がちょうど三十年戦争の最中におきたため、オーバーザクセン・クライスの守備は弱体化し、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン率いる皇帝軍の侵攻を許してしまった。ゲオルク・ヴィルヘルムは三十年戦争において中立を表明したが、ヴァレンシュタインの軍勢という脅威に直面して折れざるを得ず、1627年のケーニヒスベルク条約でやむなくカトリック側(皇帝側)について軍の駐留を許可した。1630年にスウェーデンが参戦してブランデンブルクに進軍(英語版)すると、ゲオルク・ヴィルヘルムは再び中立を表明したが、スウェーデン王グスタフ2世アドルフはブランデンブルク=プロイセンの多くの地域を占領し、ベルリンを前に軍を集結させたため、ゲオルク・ヴィルヘルムは折れてスウェーデン側で再参戦した。ゲオルク・ヴィルヘルムはスウェーデンとの同盟は締結しなかったが、スウェーデンに領内の通行権を与え、要塞2か所と援助金を提供した。しかし、これはカトリック連盟を再び敵に回すことを意味し、ブランデンブルクなどのホーエンツォレルン家領が再度カトリック側の軍勢に蹂躙されることとなった。
※この「ゲオルク・ヴィルヘルムの治世(1619年 – 1640年)」の解説は、「ブランデンブルク=プロイセン」の解説の一部です。
「ゲオルク・ヴィルヘルムの治世(1619年 – 1640年)」を含む「ブランデンブルク=プロイセン」の記事については、「ブランデンブルク=プロイセン」の概要を参照ください。
- ゲオルク・ヴィルヘルムの治世のページへのリンク