1981年の事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:50 UTC 版)
「ヒルズボロの悲劇」の記事における「1981年の事故」の解説
ヒルズボロ・スタジアムはシェフィールドの中心部から北西約4キロメートルにあるオウラートン(英語版)地区に位置し、ドン川(英語版)流域の田園地帯に1899年に建設された。他の都市型スタジアムと同様に多くの観客を受け入れるための十分な交通手段を有さない住宅地内に立地していたが、1966年にはFIFAワールドカップの会場に選ばれ、イングランドサッカー界において最も権威のあるカップ戦・FAカップ準決勝の開催地として定期的に選ばれていた。これらの試合は通常満員の観客を集めたが、試合のためにシェフィールドを訪れるサポーターは、街からスタジアムへのアクセスやスタジアム内の構造に不慣れだった。 1970年代中頃、地域内にあるスタジアムの安全性を考慮するため消防署、警察、シェフィールド市議会(建築物を認可する)、サウス・ヨークシャー州議会は特別調査委員会を設立した。1978年、スタジアムを運営するシェフィールド・ウェンズデイはスポーツ競技場安全法の定める安全証明書を取得するためイーストウッド&パートナーズの安全管理技士に調査を委託したが、1979年1月に提出された報告書により同法の定めた安全性保持に関わる全ての推奨事項を満たさないことが明らかとなった。 1981年4月11日に行われた準決勝のトッテナム・ホットスパー対ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズ戦では、スタジアム西側の立見席「レッピングス・レーン・エンド」に収容能力(10,100人)を上回る多くの観客を入場させたため試合開始3分で群衆事故が発生した。この事故は入場ゲートの混雑を緩和するため、出口用に設定されたCゲートを開放したことにより引き起こされたもので、入場ゲートから立見席へと通じる中央の通路を警官が封鎖したことや、立見席が柵で区分化されておらず横方向への移動が可能であったこともあり群集過密は軽減されたが、立見席の最大収容数を大幅に上回っていた。また、警察の判断により250人の観客をスタンドからピッチへ誘導する措置が採られたが、観客38人が腕や足や肋骨を負傷し近隣の病院へと搬送された。 試合後、サウス・ヨークシャー警察(英語版) (SYP) の責任者は10,100人の収容能力は限界を上回るとの見解をクラブ側に伝えたが、それ以上の進展はなかった。1989年に公表された中間報告書では両者間の関係は良好であったとしているが、2012年に独立委員会により公表された調査報告書では、クラブ側が警察からの要請の受け入れを拒否し、問題の責務を全て警察側に負わせるなど、この時点で双方の関係に亀裂が生じていた、としている。
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