1977年、カシオペアに加入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 06:15 UTC 版)
「向谷実」の記事における「1977年、カシオペアに加入」の解説
このネム音楽院在籍時の1977年、友人を介して同学年の年齢だった野呂一生と知り合い、野呂が櫻井哲夫と結成していたバンド、カシオペアがアマチュアバンド・コンテスト「EastWest'77」に出場するにあたり、キーボーディストとして加入の誘いを受ける。その際、野呂はカシオペアの指向について、向谷が信奉していたミュージシャンの一人を引き合いに出して「チック・コリアみたいな音楽(当時活動していたエレクトリック編成のリターン・トゥ・フォーエヴァー)をやっている」と口説いた。カシオペアは前年度の同コンテスト(「EastWest'76」)に出場して決勝大会まで進出したこともあって、交友関係の輪の中にいた向谷も存在を知っていた。当初参加した理由は、前年度の同コンテストで野呂が最優秀ギタリスト賞を受賞し、その賞品として当時最新型にして最高級のエレクトリック・ギター(ヤマハSG-2000)を獲得したことが野呂本人から吹聴され、“この有望なバンドで決勝大会に出られれば、自分も欲しい楽器を獲得出来るかもしれない”という一時的なものだった。同じプロミュージシャンでも、これをきっかけにして(収入が不安定な)バンドマンになるなんて気はなくて、安定したエレクトーン業界で生活していく将来設計は据え置いていた。そして向谷を入れたカシオペアは自らのオーディションで選んだドラマーも加えて同コンテストに再出場することになる。 カシオペアに加入した向谷は、野呂が作ってきた楽曲における音楽性の高さに感銘する一方で、それまで野呂が独学で書いていた楽譜の楽典を専門教育を受けている立場から添削・修正する役割も請け負うなど深く関わっていく。また、前年度の決勝大会に出場したカシオペアの再出場は「EastWest'77」の注目の的であり、下馬評で最高位のグランプリが確実視されるなど、軽い気持ちで参加した向谷をどんどん本気にさせていった。そしてカシオペアは前年度に続き、決勝大会まで進出。惜しくもグランプリは獲れなかったが、優秀グループ賞を受賞した(なお、本年度は当初目当てにしていた賞品は出されなく、賞状のみであった)。この頃になると、向谷の気持ちはすっかり変わり、元からプロ志望であった野呂と共にカシオペアとしてプロデビューを目指すことになっていく。そして、カシオペアは「EastWest'77」決勝大会出場メンバーで都内近郊を中心にライブ活動開始。このデビュー前の時期、「EastWest'77」の審査員だった鳴瀬喜博に見いだされ、プロとしての仕事に度々誘われるようになる。また、この頃から家庭を持ち始めたこともあって、自活のために引き続きエレクトーンのデモンストレーターやスタジオ・ミュージシャン、コピー譜の採譜作業をするようになる。
※この「1977年、カシオペアに加入」の解説は、「向谷実」の解説の一部です。
「1977年、カシオペアに加入」を含む「向谷実」の記事については、「向谷実」の概要を参照ください。
- 1977年、カシオペアに加入のページへのリンク