1977年から1994年まで
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「キリスト教民主アピール」の記事における「1977年から1994年まで」の解説
1977年の選挙に際し、3党はカトリック人民党のドリース・ファン・アフトを第一候補とする統一名簿を公表した。選挙戦でアフトは、新党が左右いずれにもよらない中道政党であることを強調した結果、49議席を獲得し、第2党となった。第1党の労働党との連立交渉が不調に終わった後、キリスト教民主アピールと自由民主国民党(VVD)による第1次ドリース・ファン・アフト内閣が、少数派内閣として発足した。一方で連立内閣への参加は、キリスト教民主アピール内部での進歩派(王党派)と保守派との間で少なからぬ軋轢が生じさせた。 1980年10月11日には、これまでの3党が解党しキリスト教民主アピールが正式に結成された。一方で、1981年3月には、反革命党系の党内左派が離脱し、EVPを設立した(後にEVPは他党と合併してフルンリンクスとなる)。 1981年5月の総選挙では48議席を獲得して第1党となり、労働党、民主66(D66)との連立による第2次ドリース・ファン・アフト内閣が発足する。しかし、キリスト教民主アピールと労働党の間での経済政策や雇用政策に関する対立から、1982年5月に労働党が連立内閣を離脱した。暫定内閣として民主66との連立による第3次ドリース・ファン・アフト内閣(少数派内閣)が発足した。 1982年の総選挙では、45議席を獲得して第2党となるが、第1党の労働党主導の内閣が形成できなかったため、キリスト教民主アピールと自由民主国民党との連立による第1次ルード・ルベルス内閣が誕生する。キリスト教民主アピールの新党首となったルベルスは、老齢年金および障害者年金の削減や公共部門の民営化など諸改革を矢継ぎ早に実施。この間キリスト教徒のみならず一般の国民からも支持を取り付けながら、1986年、1989年の各選挙に勝利した。しかし1989年の選挙で自由民主国民党と合わせても過半数に届かなかったため、労働党と共に第3次ルベルス政権を発足させ、労働党内から反発を少なからぬ受けつつも新自由主義的改革を断行していった。
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