1977年〜1983年 再出発から頂点へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 18:13 UTC 版)
「ウィリアムズF1」の記事における「1977年〜1983年 再出発から頂点へ」の解説
1977年、自ら興したフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズを手放したフランク・ウィリアムズは、エンジニアのパトリック・ヘッドとともに新チームを設立。ウィリアムズが70%、ヘッドが30%を出資し「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」として再出発した。この年は一時的なつなぎとしてマーチ・761を購入して参戦した。 マーチのマシンで参戦し、1978年からのフル参戦の体制を整えるべくチームは奔走。ヘッドは部下のフランク・ダーニー、ニール・オートレイ、ロス・ブラウンらを指揮して、強力な技術部門を構築。フランクはサウジアラビア航空の後援を受け、オーストラリア人ドライバーのアラン・ジョーンズと契約し、独立したチームとしてフル参戦できる環境を整えた。そして、1978年、再出発の純粋な第一号となるウィリアムズ・FW06を手にフル参戦を果たす。チームとしてグラウンド・エフェクト理論の研究が済んでいなかったことや資金不足から同マシンはあえて保守的な設計を取っていたが、第15戦の2位表彰台を含む計3回入賞を記録し、コンストラクターズランキング9位となった。 1979年、チームはサウジアラビア航空やアルビラッド、TAGなど複数のサウジアラビア企業のスポンサーを獲得し、長年の資金難から脱した。その際、フランクは営業活動でサウジアラビアの王室関係者のオフィスにマシンを運び込み、「このマシンにあなた方の企業名が付いて走ります」と口説いたと言われている。この年の第5戦から研究を重ねて完成させたFW07を投入。そして、第9戦イギリスGPでクレイ・レガツォーニがチーム初勝利を挙げ、残り6戦でさらに4勝を記録した。 そして、1980年には初のコンストラクターズチャンピオンを獲得するとともに、アラン・ジョーンズをドライバーズチャンピオンへと導いた。 1981年にはジョーンズとカルロス・ロイテマンにより2年連続のコンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、両ドライバー間の確執をうまく調整できなかったことから、ブラバムのネルソン・ピケに最終戦でドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。 1982年はターボエンジン勢に馬力で劣るものの、熟成されたFW08を駆るケケ・ロズベルグが堅実にポイントを積み重ね、わずか1勝で年間チャンピオンを獲得した。また、リヤを4輪にした6輪車のテストを続けていたが、規定変更により実戦には持ち出せなかった。
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