1967年タイガースデビュー、人気爆発
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「ザ・タイガース」の記事における「1967年タイガースデビュー、人気爆発」の解説
1967年2月5日発売のシングル「僕のマリー」(録音時点でのタイトルは「マリーの想い出」)でデビューする。前年12月の録音の際、曲を渡されたメンバーはそれまでの演奏曲との違和や失望を感じたという。渡辺プロ側がタイガースのプロモーションに際してイメージしたのはモンキーズであったが、セールスは伸び悩む。 だが、3月頃から人気が爆発し、5月発売のセカンド・シングル「シーサイド・バウンド」は40万枚を超えるヒットとなった。「シャボン玉ホリデー」などのテレビ出演でそれが加速し、従来よりも低年齢(中高生)にファン層が広がった。 一方、ジャズ喫茶では、内田と組んだ「内田裕也とタイガース」として前年12月から新宿ACBに出演し、ファニーズ時代と同じテイストの楽曲を演奏した。1967年1月15日の第31回日劇ウェスタンカーニバルで、内田と尾藤イサオのバックを引き受ける条件で、内田の用意した衣装を着て1曲だけ演奏する。これを契機にジャズ喫茶でのファンが増加していく。 当初、テレビは渡辺プロ、ジャズ喫茶は内田とマネジメントが分かれていたが、ジャズ喫茶においても「ザ・タイガース」として扱われ、内田はプロデュースに近い立場となった。後に、内田は渡辺プロと対立、第32回の日劇ウェスタンカーニバル前日の5月4日に内田は「キャンティ」経営者の川添夫妻の援助で渡仏した。結果として、渡辺プロは自らの路線に合わない内田をザ・タイガースから切り離した形となった。 1967年後半には活動の中心はジャズ喫茶からコンサートに変わり、テレビなどの芸能活動も増加していった。烏山の合宿所には女性の追っかけが数多く訪れ、メンバーの日常生活にも支障を来すほどになっていた。 1968年には、1月発売の4枚目シングル「君だけに愛を」のヒットに続き、3月発売の5枚目シングル「銀河のロマンス/花の首飾り」(「花の首飾り」は加橋の初のメインボーカル曲)がオリコンシングル・チャートの1位を7週間連続で獲得、公称130万枚・オリコン調べで67.6万枚を売り上げた。3月10日に「花の首飾り」の新曲発表会を日本武道館で開催する。武道館コンサートをする初の日本人音楽バンドとなる。ザ・タイガース初の主演映画『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』は4月に公開された。 7月発売の6枚目シングル「シー・シー・シー」も6週1位となり、オリコン調べで50.8万枚を売り上げた。8月12日に日本初のスタジアム・ライブとなる「ザ・タイガース・ショー〜真夏の夜の祭典」を後楽園球場で開催。11月25日には、トータル・コンセプト・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』を発売している。 こうして、ザ・タイガースは、渡辺プロによるアイドル的な売り出しによって多様な人気を集め、グループサウンズの頂点を極めることになる。
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