1923~1933年
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「第1SS装甲師団」の記事における「1923~1933年」の解説
(左)LSSAHの儀仗旗(1933-1940年)(右)LSSAHの儀仗旗(1940-1945年) ナチ党の初期に、信頼のできる忠実な男性から成る護衛部隊の創設が構想された。エルンスト・レームは、第19迫撃砲中隊から護衛組織を発足させ、最終的にこの組織は突撃隊として発展しその規模は拡大していった。ヒトラーは、ドイツ義勇軍をはじめとする他の右翼組織の影響を含む突撃隊の組織的性格に対する潜在的脅威に気がついており、1923年に、自分自身の護衛部隊の編制を命じた。当初、ユリウス・シュレックとヨーゼフ・ベアヒトルトに指揮された僅か8名で編成された部隊は、シュタプスヴァッヘ(Stabswache、幹部護衛隊の意)と呼ばれた。この時点では、部隊は突撃隊の統制下にあったにも関わらず、彼らは突撃隊と異なった制服を着用していた。シュレックは、プロイセンやドイツ帝国においてエリート部隊の象徴であった、髑髏の記章を復活させた。 その後、この部隊は『シュトーストルップ ・アドルフ・ヒトラー(Stoßtrupp Adolf Hitler 日:アドルフ・ヒトラー特攻隊)』と名を変え、1923年11月9日に、突撃隊や他の義勇軍組織と共に、ミュンヘン一揆に参加した。決起が失敗し、ヒトラーが収監されると、ナチス党とそれに関わる部隊は、解散されることになった。 1924年にヒトラーは釈放され、彼は直ぐに新しい護衛部隊を組織する。その部隊は再びシュタプスヴァッヘと名づけられるが、突撃隊の統制下には置かれなかった。1925年にこの部隊は、シュッツシュタフェル(Schutzstaffel,SS)と改称した。1933年までに、SSは小さな個人護衛部隊から5万人を越える組織へ成長した。 1933年3月17日、ヒトラーは自らの個人護衛部隊の編制を命じた。当時、ヒトラーのボディガードだったヨーゼフ・ディートリヒを指揮官に任じ、そして彼が有能で信頼できる親衛隊員120名を選抜し『SS=シュタプスヴァッヘ・ベルリン(SS-Stabswache Berlin 日:ベルリンSS要人警護隊)』を編成、直ぐに『SS=ゾンダーコマンド・ベルリン(SS-Sonderkommando Berlin 日:ベルリンSS特務部隊)』と改称した。部隊は、ヴェルサイユ条約により廃校となったベルリンの陸軍士官学校の兵舎を根拠地とした。 その後、『SS=ゾンダーコマンド ツォッセン(SS-Sonderkommando Zossen)』と、『SS=ゾンダーコマンド ユターボク(SS-Sonderkommando Juterbog)』が編成された。この2個部隊は9月に『SS=ゾンダーコマンド・ベルリン』に統合されるまで、ナチス党幹部の護衛に使用され、SSの訓練部隊として機能し、短い間ではあったが準警察的な役割も果たした。統合された部隊はニュルンベルク党大会において『SS=シュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー(SS-Standarte Adolf Hitler 日:SS=アドルフ・ヒトラー連隊)』となった。 1933年11月、SSシュタンダルテ アドルフ・ヒトラーはミュンヘン一揆10周年記念祭典の集会と、決起の際多くのナチス党員が倒れた場所に建てられた将軍廟の追悼式に参加した。隊員達はヒトラーへの忠誠を誓い、新たな部隊名『ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー(Leibstandarte Adolf Hitler 略:LAH 日:アドルフ・ヒトラー身辺護衛連隊)』を授与され式典を終えた。
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