1908年以降の生存の主張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 18:23 UTC 版)
「ブッチ・キャシディ」の記事における「1908年以降の生存の主張」の解説
パーカーの姉妹ルーラ・パーカー・ベテンソン(Lula Parker Betenson)は、パーカーは合衆国に生還し、無名のまま暮らしたと主張した。ベテンソンは『Butch Cassidy, My Brother』で、1908年のずっとあとに彼に会ったパーカーと親しい人々の例をいくつか出し、1925年のブッチ、兄弟マーク、父マキシとの「家庭再結成」を詳しく物語っている。 1974年または1975年、コラムニストであるレッド・フェンウィック(Red Fenwick)は、『The Denver Post』で、当時『Post』の記者であった著者イヴァン・ゴールドマン(Ivan Goldman)に、自分はパーカーの外科医と知り合いであると語った。フェンウィックは、彼女は絶対に信頼できる人物であると言った。彼女がフェンウィックに語ったところによれば、彼がボリビアで殺されたのち幾年ものあいだ彼女はパーカーを治療し続けたという。 ロングボーもまた合衆国に帰り、1936年に死亡したという不確かな状況証拠がある。 ジョン・マクフィー(John McPhee)は、『Annals of the Former World』で、1930年代に家庭医フランシス・スミス(Francis Smith)医学博士によってデーヴィッド・ラヴ(David Love)に、ラヴが医学生であった時に語られた物語を述べている。スミスが述べたところによれば、彼はパーカーに会ったばかりで、パーカーはスミスに自分の顔はパリの外科医によって変えられたと語り、彼はスミスに治療された弾傷を示したが、スミスはそれが以前パーカーに施したものだと判ったという。 1960年、アン・バセット(Ann Bassett)の姉妹であるジョシー・バセット(Josie Bassett)はインタビューで、パーカーは「南アメリカから帰ってきたのち」1920年代に彼女のもとを訪れ、「15年ほど前にネヴァダ州ジョニー(Johnnie)で死んだ」と主張した。パーカーの郷里、ユタ州サークルヴィルの地元の人々の別のインタヴューでは、パーカーは死ぬまでネヴァダ州で働いたという主張がある。 アメリカ西部史家チャールズ・ケリー(Charles Kelly)は1938年の著書『Is Butch Cassidy Dead?』の章「Outlaw Trail」を、もしパーカーが「これらの噂の主張するように彼がまだ生きているならば、1938年7月28日に死亡した父マキシミリアン・パーカーのもとを訪れるためにユタ州サークルヴィルに、帰っていないことはきわめて奇妙に思われる」と述べて締めくくった。ケリーはパーカーの父をインタヴューしたと考えられているが、インタヴューの既知の筆記記録は無い。 ワシントン州スポケーン(Spokane)にあるフリーメーソンのロッジ(Lodge。支部)はブッチ・キャシディの小屋(lodge)であるといわれている。彼は支部に加入し、死ぬまで活動したという。また彼はフィリップス製造会社(Phillips manufacturing company)を所有し、経営したという。しかし彼は機械労働の訓練を全くしたことがないため、この話は歴史家により議論がある。またこの主張によると支部の記録類は失われているので、裏付けをすることはできない。しかしながら、この話は彼がウィリアム・フィリップスであると主張する彼の姉妹によって主張された。 ケリーが、サン・ヴィンチェンテ事件ののちパーカーとロングボーとの両者からの文通はやんだと言った一方で、1930年や1937年、1938年付けのパーカーによって書かれたと言われる手紙が公表されている。
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