1839年:再度の東進
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「トマス・シンプソン (探検家)」の記事における「1839年:再度の東進」の解説
この年は、氷の状態に恵まれた年であった。一行は前年と同じ経路を取り、ターンアゲイン岬とアレクサンダー岬を通過し、初めてディーズ海峡 (Dease Strait) とクイーン・モード湾を航行して、アデレード半島 (Adelaide Peninsula) とシンプソン海峡 (Simpson Strait) を北方に発見し、マッケイとシンクレアが1834年に到達していたチャントリー湾 (Chantry Inlet) に達した。モントリオール島 (Montreal Island) では、1834年にジョージ・バックが残した貯蔵物を発見した。チャントリー湾を発った後、一行は4日間にわたって強風によって行手を阻まれた。北東に50マイル(80km)ほど進んだカスター・アンド・ポラックス川 (Castor and Pollux River) 付近で、一行は引き返すことになった。帰路、一行はキングウィリアム島の南岸に沿って進み、彼らがハーシェル岬 (Cape Hershel) と呼んだ岬を過ぎると海岸は北へ転じていった。一行はそのままクイーン・モード湾の南岸沿いを進み、次いで、ビクトリア島の南岸沿いを進んだ。この航行は、その時点までに北極圏カナダの水域において行なわれた、最も広範囲に及ぶボートの航行であった。 この時点において、ベーリング海峡からチャントリー湾を越えるあたりまで、北極圏の海岸線の状況が、大まかながら地図化することが可能になった。残る問題は、チャントリー湾からブーシア湾まで、さらには大陸の北岸からパリー海峡 (Parry Channel) の南側までの間に広がる巨大な長方形を成す範囲へと、航行可能な水路が存在する可能性の有無であった。一行は、この年9月にグレートスレーブ湖まで戻り、そこでトマス・シンプソンはハドソン湾会社の役員たちに、探険の成果を知らせる手紙を書き、その内容は当時の数多くの新聞に掲載された。彼はさらに、フューリー・アンド・ヘクラ海峡 (Fury and Hecla Strait) の海岸の探索や、従来の彼の探険の東の到達限界からさらに先へと進むことなどを、次の探険計画として発信した。この新しい探険の準備のために、シンプソンは直ちにレッド・リバー・コロニーへ出立し、全長1910マイル(2000kmあまり)の行程を61日間で移動し、1840年2月2日に到着した。毎年6月にはカナダから毎年定例のカヌー便が入植地に来ていたが、この年の便には、先にシンプソンが提案した計画については、受け付けたとも、探険の継続を承認するとも、何の応答も含まれていなかった。シンプソンの提言がイングランドに達したのは、この時点で応答が返されるのには間に合わないタイミングだったのである。会社役員からの承認を得られなかったシンプソンは、次の探険の準備を進めることができなかった。シンプソンは、まる一年待ち続けるよりは、と考え、自らイングランドに帰国することにした。
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