1839年:再度の東進とは? わかりやすく解説

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1839年:再度の東進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/30 04:40 UTC 版)

トマス・シンプソン (探検家)」の記事における「1839年:再度の東進」の解説

この年は、氷の状態に恵まれたであった一行前年と同じ経路取り、ターンアゲイン岬とアレクサンダー岬を通過し初めディーズ海峡 (Dease Strait) とクイーン・モード湾航行してアデレード半島 (Adelaide Peninsula) とシンプソン海峡 (Simpson Strait) を北方発見しマッケイシンクレア1834年到達していたチャントリー湾 (Chantry Inlet) に達したモントリオール島 (Montreal Island) では、1834年ジョージ・バック残した貯蔵物を発見したチャントリー湾を発った後、一行4日間にわたって強風によって行手阻まれた。北東50マイル(80km)ほど進んだカスター・アンド・ポラックス川 (Castor and Pollux River) 付近で、一行は引き返すことになった帰路一行キングウィリアム島南岸沿って進み、彼らがハーシェル岬 (Cape Hershel) と呼んだ岬を過ぎると海岸北へ転じていった。一行そのままクイーン・モード湾南岸沿いを進み次いでビクトリア島南岸沿いを進んだ。この航行は、その時点までに北極圏カナダ水域において行なわれた、最も広範囲に及ぶボート航行であった。 この時点において、ベーリング海峡からチャントリー湾を越えるあたりまで、北極圏海岸線状況が、大まかながら地図化することが可能になった。残る問題は、チャントリー湾からブーシア湾まで、さらには大陸北岸からパリー海峡 (Parry Channel) の南側までの間に広がる巨大な長方形を成す範囲へと、航行可能水路存在する可能性有無であった一行は、この年9月グレートスレーブ湖まで戻り、そこでトマス・シンプソンハドソン湾会社役員たちに、探険成果知らせ手紙書きその内容当時数多く新聞掲載された。彼はさらに、フューリー・アンド・ヘクラ海峡 (Fury and Hecla Strait) の海岸探索や、従来彼の探険の東の到達限界からさらに先へと進むことなどを、次の探険計画として発信した。この新し探険準備のために、シンプソン直ちにレッド・リバー・コロニーへ出立し全長1910マイル(2000kmあまり)の行程61日間移動し1840年2月2日到着した毎年6月にはカナダから毎年定例カヌー便が入植地来ていたが、この年便には、先にシンプソン提案した計画については、受け付けたとも、探険継続承認するとも、何の応答含まれていなかった。シンプソン提言イングランド達したのは、この時点応答返されるのには間に合わないタイミングだったのである会社役員からの承認得られなかったシンプソンは、次の探険準備進めることができなかった。シンプソンは、まる一年待ち続けるよりは、と考え、自らイングランド帰国することにした。

※この「1839年:再度の東進」の解説は、「トマス・シンプソン (探検家)」の解説の一部です。
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