1619年:転換点の年
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「バージニア州の歴史」の記事における「1619年:転換点の年」の解説
1619年はバージニア会社にとって転換点の年となった。ジョージ・イアードリーがこの年にバージニア知事に就任した。長い目で見てイアードリーが古い専制君主制を改良しより民主的な形態を作ったことが最も重要な発展となった。新世界では初めての選出された議会となる植民地議会(House of Burgesses)を創設し、1619年7月30日に最初の会合がジェームズタウンの教会で開かれた(現在のバージニア州議会下院はこの植民地議会に起源がある)。 1619年にはまた、バージニア会社が開拓地の人口を増やすために男性開拓者の妻候補として90人の独身女性をジェームズタウンに送った。この時までは、家族と共に到着していた妻と子供達だけが女性であった。 同じ年に、2隻のイギリス私掠船によって「20名余りの」アンゴラ人が植民地に到着した。おそらく植民地では初めてのアフリカ人である。彼らアフリカ人はヨーロッパからの多くの年季奉公人と共にすでに植民地の主要生産品となっていたタバコ産業の拡大に貢献した。これらの黒人は年季奉公として扱われたが、これがアメリカにおける奴隷制の始まりであった。アフリカ人やヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷の大々的輸入はこの世紀遅くまで起こらなかった。 1619年にはさらに、プランテーションと開拓地が当時の呼び方で4つの自治区(incorporations)あるいは市(citties)に分けられた年でもある。チャールズ市、エリザベス市、ヘンリコ市およびジェームズ市であり、ジェームズタウンには植民地のための比較的小さな政府が置かれた。4つの市は当時の輸送の主要導線となるジェームズ川に沿って拡がった。エリザベス市は当初ケコータン(先住民の言葉、英語の綴りでは様々なものがある)と呼ばれ、現在のサウス・ハンプトン・ローズとイースタンショアの地域を含んでいた。 ある地域では共有の土地所有や借地よりも個人での土地所有という制度になり、家族にとっては生産を上げる動機付けとなり、生活の質を上げ富を築くことになった。おそらく、ジェームズ川の南岸に沿って西方に発展したトマス・デイル卿の不運なヘンリカスより進取的な所はなく、そこではインディアンも植民地の最初のカレッジで教育を受けた。 今日のリッチモンドにある滝から約6マイル南、ヘンリコ市のフォーリング・クリーク鉄工所はフォーリング・クリークの合流点近くに造られ、鉄を作るために地元の鉱床を使った。これは北アメリカで初めてのものであった。現存する記録では、鉄の生産が始まったが、1622年3月のできごとで生産が中断されたことを示している。
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