1609年-1610年:「飢えの時」
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「バージニア州の歴史」の記事における「1609年-1610年:「飢えの時」」の解説
スミスが出発した後、イングランドから3回目の補給任務を与えられた新しい旗艦シーベンチャー号は大型で3日間に及ぶハリケーンに遭ってバミューダで難破したために、補給物資が予定通り届かないという事態が生じた。シーベンチャー号は3回目の補給任務にあった他の船とは別れてしまい、船隊のうちの7隻が数百人の新たな開拓者を乗せてジェームズタウンに到着したが、旗艦に乗せてあった食料や物資が届かないために窮乏状態となった。 1609年から1610年の冬、さらに続く春や初夏にも新たな船は来なかった。開拓者達は「飢えの時(英語版)」と呼ばれることになる事態に直面した。ジョン・スミスに変わって指導者となったディスカバリー号のジョン・ラトクリフ船長は、スミスが去ったあとにより攻撃的になっていたポウハタン族に捕まり殺された。わずかな量の食料が大変高価な価格で取引され、開拓者達は貴重な道具や装置を諦めることになった。何らかの援助が来るのかを知る術も無かった。しかし、彼らは忘れ去られた訳ではなく、バミューダとイングランドで再補給のための行動が進行中であった。 3回目の補給任務の指導者とシーベンチャー号の生き残りの者は、バミューダの無人島で難破し10ヶ月以上を経過していたが、破壊された旗艦の部品を使って2隻の小さな船を造り上げた。バミューダには所有権を維持するために数人を残し、改めてジェームズタウンに向けて出帆した(バージニア会社はシーベンチャー号が難破した時からバミューダの物理的領有を続けており、1612年の第3勅許ではバージニアの境界をサマーズ諸島として知られるバミューダの海域まで拡げていた。同じ株主によって1615年に別のサマーズ諸島会社が作られ、1684年までバミューダを管理した)。 1610年5月23日、ニューポート船長とその提督ジョージ・サマーズ卿および新しい知事のトマス・ゲイツ卿がやっとジェームズタウンに到着したとき、彼らは繁栄する植民地を見出すことを期待していた。その代わりに発見したものは大きな違いがあるものだった。500人の開拓者達のうち80%は死に絶え、残っている者も多くは病気に罹っていた。シーベンチャー号の生き残りの者達が小さな船2隻でバミューダから運べた物資はほとんど無かった。過酷な現実は彼らのジェームズタウンへの到着で状況がいくらか改善されたに過ぎなかった。その2隻の船を使ってこの厳しい環境から脱出することが唯一実行可能な選択肢に思われたが、指導者達はそれを受け入れることを躊躇した。最後にジェームズ川を船で下り始めた。 一方イングランドでは、バージニア会社が1609年5月23日に批准された第2勅許により再組織化され、新しく指名された知事第3代デ・ラ・ウェア男爵トマス・ウェスト(現代ではデラウェア卿として知られる)に植民地の最高指導権限を与えた。第3補給船隊の他の船の1隻の船長サミュエル・アーゴールを通じて、シーベンチャー号は(その任務の物資の大半と共に)ジェームズタウンに到着しておらず、ジェームズタウンの住人は増えたにも拘わらず食料と物資は極めて乏しいことが伝えられた。
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