1609年平戸オランダ商館の設立
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「ヤックス・スペックス」の記事における「1609年平戸オランダ商館の設立」の解説
スペックスは11隻からなるフルフーフの艦隊の一員として、1607年にテセルから出帆した。バンテンに到着後、日本との交易を開始するため2隻が日本に向かった 。 この2隻は、デ・フリフューン号(De Griffioen、砲19門)とローデ・レーウ・メット・パイレン号(Roode Leeuw met Pijlen、400トン、砲26門)である。両船は1609年7月2日に平戸に到着した。直ちに、アブラハム・ファン・デン・ブロックとニコラス・ピュイックの2名がマウリッツの親書を持って駿府の徳川家康のもとに赴き、通商を要請した。家康は慶長14年7月25日(1609年8月24日)付けの朱印状を下付し、オランダ船の来航と安全を保障し、また来航地と商館設置場所の自由を与えた。このときの通訳は、リーフデ号の乗組員であったメルキオール・ファン・サントフォールトで、当時長崎で交易を行っていた。 家康は江戸に近い浦賀での交易を期待していたようだが、船上会議において、平戸に1軒の家を借り、オランダ商館を設立することが決定された。当時太平洋側の航路は十分開拓されておらず、またスペイン・ポルトガルの交易地である長崎に近く情報収集に便利であるということがその理由であった。スペックスは初代の商館長に任命され、スペックス含め6人が平戸に残ることとなった。スペックスはウィリアム・アダムスの協力を得ることができ、1613年まで商館長を勤めた。1610年、スペックスは朝鮮にも船を派遣している。 さらに、3代目の商館長として1614年から1621年まで平戸にあった。この間の1620年、平山常陳事件が起こるが、スペックスはイギリス商館長であったリチャード・コックスと協力して事件の解決に貢献している。
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