1609年のスペイン人の遠征
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「ガスパール・ヤンガ」の記事における「1609年のスペイン人の遠征」の解説
1609年1月にペドロ・ゴンサレス・デ・エレーラの率いる約550人のスペイン軍がプエブラを出発した。うち100人がスペイン正規軍で、残りは徴兵あるいは傭兵だった。これに対してマルーン軍は約100人が何らかの火器を持ち、400人ほどが石・マチェーテ・弓矢などで武装していた。マルーン軍はアンゴラ出身のフランシスコ・デ・ラ・マトサが率いていた。 スペイン軍に対してヤンガは捕虜にしたスペイン人を介して和平案を提出した。ヤンガ案はインディオとスペイン人の間の対立の解決に似たものであり、自治を認めるかわりにマルーンは貢納を行い、スペイン人が攻撃された場合にはその味方をするというものだった。さらにヤンガはこの地域に逃げこんだ奴隷を返還することも提案した。これは一帯の奴隷主の多くの心配を緩和するために必要な譲歩だった。 スペイン側は和平案を拒絶して戦闘をはじめ、双方に甚大な損害が発生した。スペイン軍はマルーンの集落を焼き払ったが、マルーン側は周囲の地に逃れた。マルーンが地勢を熟知していたため、スペイン側は決定的な勝利をあげることができなかった。何年もの間膠着状態が続き、最終的にスペイン側は協議の座につくことに同意した。先のヤンガの提案が認められ、それに加えてフランシスコ会聖職者のみが人々に仕え、ヤンガの一族に統治権が与えられるというただし書きが加えられた:7。協定は1618年に調印された。1630年までにサン・ロレンソ・デ・ロス・ネグロス・デ・セラルボが設立された。この町は今のベラクルス州にあり、1932年にヤンガ (Yanga, Veracruz) と改称された。
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