12世紀‐13世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/11 09:28 UTC 版)
「コッレマッジョ大聖堂」の記事における「12世紀‐13世紀」の解説
一度は大聖堂は完成したものの、1315年12月13日に発生したマグニチュード5.9の地震により、一部損壊した。1349年9月9日にも、再びマグニチュード6.5の地震が起き、およそ800人が死亡した。(当時のラクイラの人口が10000人以下だったので、犠牲者は人口に対しおよそ10分の1にあたる)大聖堂でも、修復工事のさなかだったが、さらに被害を受けた。 いくつかの教会の備品を売却したことにより、資金が集まったため、次の年には改装が完了した。
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12世紀~13世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:22 UTC 版)
「サン=ジェルマン=アン=レー城」の記事における「12世紀~13世紀」の解説
最初の城は、「大砦 Grand Châtelet 」と名付けられ、ルイ6世により1122年頃に現在地に建設され、1230年代にルイ9世により拡張された。 城にあるサン・ルイ教会はルイ9世時代のもので、フランスゴシック建築のレイヨナン式に分類される。1238年の憲章でルイ9世は定期的に礼拝に通うようになった。これは、王宮内に教会が建設された初めての例である。このサント・シャペル教会は、聖荊冠や聖十字架を納めるための場所であった。その設計と建築は、のちに聖ルイ王が1240年から1248年にかけてパリのパレ・ド・ジュスティス内に建築した有名なサント・シャペルを予感させる。 両教会の建物は、ルイお気に入りの建築家ピエール・ド・モントルイユによる。彼は、サン=ジェルマン=アン=レー城で成功した構造上の手法を、パリのサント・シャペルでも採用した。身廊は1つで、その端はシュヴェで終わる。壁のほとんどの部分は、最上部まで厚みのないガラス窓で占められる。窓と窓の間は、外側を大きな控え壁に支えられている。ヴォールトの尖頭アーチはベイの間の円柱に乗り、円柱の土台は低い位置で独立したアーケードの背後に位置する。このように、内部にはなんらの支柱もなしで、開放的な大空間を生み出している。多数の窓も、金属製の部品を壁の構造に組み込み、石の安定性を支えるというピエール・アルメ( pierre armée )の技術に支えられている。西の壁は、ゴシックのレイヨナン式のバラ窓で飾られている。 1238年にボードゥアン2世が、ルイ王に聖遺物の荊冠を譲り渡したのはこの教会であり、パリのサント・シャペルが1248年4月に奉献されるまで、聖遺物はこの教会に保管されていた。 城は1346年、エドワード黒太子に火を放たれ、ゴシック建築の教会だけが中世の時代から現代まで残されている。1360年代、古い基盤の上に、シャルル5世は「旧城 Château Vieux 」を再建した。
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