黒い大佐
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「ヴィクトル・アルクスニス」の記事における「黒い大佐」の解説
1973年祖父の名を冠するヤーコフ・アルクスニス名称(記念)リガ陸軍航空上級工学学校を卒業する。専門は通信分野で、ソ連空軍の技術将校として大佐まで累進する。 1989年ソ連人民代議員にラトビア共和国のリガから立候補し当選する。アルクスニス当選の原動力となったのはラトビア共和国内のロシア系住民を中心とする独立反対派であった。1990年にはラトビア最高会議代議員にも選出された。 アルクスニスは保守派の論客として頭角を現し、1990年にはソ連人民代議員大会の院内会派として「ソユーズ」(Союз、「連邦」「同盟」の意)を組織し指導者の一人となる。アルクスニスは「ソユーズ」を通じて、連邦の維持やバルト三国のロシア人権益保護を主張する一方で、内戦の不可避とソ連軍による権力掌握の可能性をほのめかした。1990年2月の時点で「ソユーズ」は軍人代議員を中心に561名の代議員を擁し、これに別の保守系会派「共産主義者」730名をあわせると人民代議員大会における保守派の勢力はゴルバチョフを中心とする中間派や改革派にとって脅威となった。アルクスニスらの蠢動もあり、保守派から攻撃される形でワジム・バカーチンソ連内相、ついでエドゥアルド・シェワルナゼ外相は辞任を余儀なくされた。1990年12月には「国家救済委員会」を組織し、ゴルバチョフ大統領に対してソ連全土に対して非常事態宣言を布告し、全政党の活動停止や独立を求める連邦構成共和国に対する実力行使などを要求するまでに至った。アルクスニスは後年、自身のブログで当時、自らの背後には内務省(MVD)の特殊部隊「OMON」があり、リトアニアにおけるOMONによる武力弾圧 Soviet OMON assaults on Lithuanian border postsに対しても関与をほのめかしている。
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黒い大佐
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