黄花崗起義と辛亥革命
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1910年10月、孫文は英領マラヤのペナン島(現在のマレーシア)に黄興・胡漢民・趙声らを集め、次の蜂起の指示をあたえ、新軍のみにたよらず、500名規模の党員で蜂起し、その勢いで新軍を引き寄せ、広州を占領したのちは趙声は江西省、黄興は湖南省方面に進軍すべきことを伝えた。1911年4月23日、同盟会組織の第三次広州起義では、趙声が総指揮、黄興が副総指揮となった。当初、十路から広州を攻めることになっていたが、四路からの攻撃に計画が縮小された。しかし、二路は武器購入の間に城門を閉められるという失策を犯し、四路は計画変更を時期の変更と誤解し、三路の陳炯明は動かず、結局動いたのは一路の黄興のみであった。趙声と黄興の2人は自ら先頭に立ち両広総督衙門を突破したが、両広総督の張鳴岐(中国語版)は既に脱出していた。その後、清軍の反撃によって市街戦となり計画は失敗、いわゆる黄花崗七十二烈士の犠牲を出した(黄花崗起義)。黄興は右手を負傷し、指を2つ失っていた。広州へ脱出し、河南省の女性革命家の徐宗漢(中国語版)の家にかくまわれ、傷の手当を受けた。徐宗漢は香港の医療施設へ黄興を運び込み、そこで外科手術に必要な身内のサインを求められた際、彼女は黄興の妻としてサインしている。この蜂起は同盟会成立後最大のもので、華僑と日本留学生を中核としたものであった。 ところが、同じ年に武昌起義が勃発したので、黄興は長江をさかのぼって武漢に到着し軍を指導して、革命成就のきっかけをつくった。まもなく清軍が漢陽を奪回すると上海に下って、革命軍に推されて大元帥となったが、その後、元帥の地位は黎元洪に譲り、みずからは副元帥となった。辛亥革命が成功し、南京に臨時政府が組織されると、陸軍総長兼参謀長に就任し、もっぱら軍事を掌握した。
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