鹿児島県尋常中学造士館
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「中学造士館」の記事における「鹿児島県尋常中学造士館」の解説
明治29年(1896年)12月設立。旧・鹿児島高等中学造士館の予科生徒を収容して明治30年(1897年)1月25日開校。館長は岩崎行親。当初の生徒数(元・高等中学造士館生)は50名前後であった。 明治30年(1897年)、鹿児島県第一尋常中学校(鹿児島県尋常中学校を改称)の2年生から4年生まで各学年40名を尋常中学造士館に転籍させ、生徒数の確保を図った。尋常中学造士館は現在の「鹿児島県歴史資料センター黎明館」、尋常中学校は現在の「かごしま県民交流センター」敷地にあり、「館馬場(やかたんばば)」(国道10号線)を隔てて並立していた。このような立地環境から、尋常中学造士館は「上の中学」、尋常中学校は「下の中学」と呼ばれ、喧嘩騒ぎも絶えなかった。 明治32年(1899年)4月、「尋常」が外れ、鹿児島県中学造士館と改称。やがて政府に高等学校(旧制)増設の方針が明らかとなると、島津忠重が16万余円並びに中学造士館の建物・設備を政府へ寄付することで鹿児島県への高等学校設置を願い出て、さらに県議会も高等学校開設を建議した。その結果、明治34年(1901年)4月1日には第七高等学校造士館(七高)設置の告示がなされ、同年4月30日をもって鹿児島県中学造士館廃止となった。翌日の5月1日には鹿児島県第一中学校分校を七高内に設立し旧・中学造士館生の3年生以下を収容した。当時の規定で分校には第3学年までしか設置できなかったため、4年生以上は鹿児島県第一中学校に収容された。 鹿児島城址裏、城山自然遊歩道の照国神社側入口より数百メートル左側地点には、「忠芬義芳」碑がある。これは旧・中学造士館と鹿児島中学校(第一中学校を改称したもの)両校の卒業生で日露戦争で戦死した者たちを慰霊するため、明治44年(1911年)5月27日に建てられた。碑文は当時第七高等学校造士館長(元・尋常中学造士館長兼尋常中学校長)であった岩崎行親による。碑がある敷地の脇には、甲南高校3期卒業生で組織される「三甲会」の有志により、卒業五十周年記念事業の一つとして、国や鹿児島市の許可を得て説明板が設置されている。
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