鮮明野党VS穏健野党
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「韓国における政党史」の記事における「鮮明野党VS穏健野党」の解説
当時の有力野党である新民党においては、党総裁であった柳珍山を中心とする対政府穏健派と、金泳三や金大中を中心とする対政府強硬派の対立があり、強硬派の一部議員は民主統一党を結成した。1974年4月28日に柳総裁が急死したことを受けて8月の総裁選挙で当時45歳の金泳三が総裁に当選し、「鮮明」路線を貫き、「維新体制」の打倒と憲法改正を強く主張し、院外闘争も積極的に展開した。 しかし、党内では「鮮明」路線を貫くことで政府から弾圧されることを恐れる穏健派の離反を招き、対立が激化した。そして、1976年9月の党大会では穏健派が多数を占め、総裁による単一指導体制から集団指導体制へと変更、代表最高委員選挙においても、71年の予備選挙で大統領候補の座を金泳三や金大中と争った穏健派の李哲承が勝利した。 盤石と思われた維新体制に対する反発は年を追う毎に強くなり、1978年の総選挙では、新民党は議席数でこそ共和党に優位(61名対68名)を許したが、得票率では32.3%対31.2%と与党を上回る結果となった。党内では再び強硬派の勢いが強くなり、1979年5月の総裁選挙で金泳三が当選した。これに対して同年8月13日、同党の地区党委員長3名が党総裁選挙において党員資格がない者が投票したので選挙は無効であるとして、金泳三総裁と副総裁4名(李敏雨、朴永録、趙尹衝、李基澤)の職務停止仮処分申請をソウル民事地方裁判所に提出した。仮処分申請を受けた裁判所は9月8日、金泳三総裁と副総裁4名の職務執行と権限行使を停止、鄭雲甲(全党大会議長)を総裁職務代行者に任命する決定を下した。この事態に対し新民党は金泳三体制を転覆させようとする政治的謀略だとして強く反発、党内は金泳三総裁と鄭雲甲総裁代行間で激しい対立が生じたが、その後10月26日に朴正熙が暗殺された事件(10・26事件)によって政局が大変動したことを受け、仮処分申請が取り下げられ、金泳三を中心とする党指導部はその機能を回復することが出来た。
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