高知博愛園とは? わかりやすく解説

高知博愛園

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 19:01 UTC 版)

岡上菊栄」の記事における「高知博愛園」の解説

1900年明治41年)、内務省による「第1回感化救済事業講習会開催機に私設慈善事業救済し組織化する動きが、日本全国始まったその1つとして翌1901年明治42年)、高知県でも高知慈善協会成立した。その理事長であった民権家の北村浩(後の高知県会議員)は栄の評判聞き安芸町第二小学校栄を訪ね、高知博愛園への赴任依頼した北村栄を知ったきっかけは、北村血縁者視学務めていたことから、先述授乳の件が北村耳に入ったか、または高知県会で高知博愛園の話題出て、同園にふさわしい人物を捜し求めた末に、栄に辿り着いた、などの説がある。 北村栄を訪ねた際、栄を園に迎え真意として、女子師範出で訓導となった教員月俸が高いが、栄は自力で准訓導となったために月俸安く高知慈善協会予算少ないために、金のかからない人物選んだ語った栄にしてみれば失礼極まりない話だが、栄は北村正直さ気に入って、この話を愉快に笑い博愛入り決意した高知慈善協会成立には、栄の父の庵の主君である土佐山内氏関連していることも、栄の博愛入り理由一つであり、協会初代会頭山内豊景博愛園の園舎山内藩元家老邸宅利用したものであった両親の縁にうすく嘆き多かつた我身を省み、こゝの園児たち身の上他人事とも思はれず、又この園の創立旧恩ある山内家慈悲心より出たのであることを思ひ、私は毅然として天よりの使命感じたでございます。 — 岡上菊栄三十余年懐古」、武井 2003b, p. 205より引用 栄の博愛入り決意聞いた夫の栄吾は、三女千代がまだ乳児だったこともあり、自分らの家庭犠牲になることを恐れ一度反対した。しかし栄は反対意見を耳にすることで、却って博愛入り決意固くし、場合によっては離縁してでも、とまで考えた。栄吾は栄の強い決意前に博愛入り同意した1902年明治43年4月1日高知慈善協会育児院が高知博愛園(高知市本町)と改称すると共に栄は博愛園の初代母として赴任した当時はすでに、35人の子供が収容されていた。一般的に博愛のような施設孤児院よばれるが、親を亡くした孤児よりむしろ、病気貧困入監など、親に問題ある子供の方が多かった

※この「高知博愛園」の解説は、「岡上菊栄」の解説の一部です。
「高知博愛園」を含む「岡上菊栄」の記事については、「岡上菊栄」の概要を参照ください。

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