高知博愛園
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1900年(明治41年)、内務省による「第1回感化救済事業講習会」開催を機に、私設の慈善事業を救済して組織化する動きが、日本全国で始まった。その1つとして翌1901年(明治42年)、高知県でも高知慈善協会が成立した。その理事長であった民権家の北村浩(後の高知県会議員)は菊栄の評判を聞き、安芸町第二小学校に菊栄を訪ね、高知博愛園への赴任を依頼した。北村が菊栄を知ったきっかけは、北村の血縁者が視学を務めていたことから、先述の授乳の件が北村の耳に入ったか、または高知県会で高知博愛園の話題が出て、同園にふさわしい人物を捜し求めた末に、菊栄に辿り着いた、などの説がある。 北村は菊栄を訪ねた際、菊栄を園に迎える真意として、女子師範出で訓導となった教員は月俸が高いが、菊栄は自力で准訓導となったために月俸が安く、高知慈善協会も予算が少ないために、金のかからない人物を選んだと語った。菊栄にしてみれば失礼極まりない話だが、菊栄は北村の正直さを気に入って、この話を愉快に笑い、博愛園入りを決意した。高知慈善協会の成立には、菊栄の父の樹庵の主君である土佐山内氏が関連していることも、菊栄の博愛園入りの理由の一つであり、協会の初代会頭は山内豊景、博愛園の園舎は山内藩元家老の邸宅を利用したものであった。 両親の縁にうすく嘆き多かつた我身を省み、こゝの園児たちの身の上が他人事とも思はれず、又この園の創立が旧恩ある山内家の慈悲心より出たものであることを思ひ、私は毅然として天よりの使命を感じたのでございます。 — 岡上菊栄「三十余年の懐古」、武井 2003b, p. 205より引用 菊栄の博愛園入りの決意を聞いた夫の栄吾は、三女の千代がまだ乳児だったこともあり、自分らの家庭が犠牲になることを恐れ、一度は反対した。しかし菊栄は反対意見を耳にすることで、却って博愛園入りの決意を固くし、場合によっては離縁してでも、とまで考えた。栄吾は菊栄の強い決意を前に、博愛園入りに同意した。 1902年(明治43年)4月1日、高知慈善協会の育児院が高知博愛園(高知市本町)と改称すると共に、菊栄は博愛園の初代園母として赴任した。当時はすでに、35人の子供が収容されていた。一般的に博愛園のような施設は孤児院とよばれるが、親を亡くした孤児よりむしろ、病気、貧困、入監など、親に問題のある子供の方が多かった。
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