教員時代の子供たちへの支援
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 19:01 UTC 版)
「岡上菊栄」の記事における「教員時代の子供たちへの支援」の解説
1900年(明治41年)、安芸郡の安芸第二尋常小学校に転任した。ここでは、不登校の子供が非常に多かった。菊栄は事情を知るため、自ら家庭訪問に出向いた。貧乏な家が多いと分かると、夕食時の訪問には家の負担にならぬよう、自ら弁当を持参し、自分の食事をその家庭にわけた。次第に、それらの家でも子供たちに人並みの勉強をさせたいにも拘らず、実際には子供たちが労働や下の子供たちの世話を強いられていることが判明した。菊栄は自身の幼少時の辛い生活や、学問を始めたときの喜びを想い、彼らに学問の大切さを説いた。 菊栄の努力は実り、親や子供たちは次第に心を開き、登校する子供たちは増え始めた。生活苦に喘ぐ家庭の子供たちのため、菊栄は自宅の着物をすべて仕立て直して配布し、自宅から食材を持ちこんで、学校で調理して食事を与えた。教科書を買えない子供のためには、自らノートを買い込み、教科書を筆写して与えた。乳児を背負って投稿する子供もいたため、自宅から布団を持ち込んで教室で乳児を寝かせた。 教育現場の指導・監督役である視学が参観しに来ていたある夏の日、いつものように、子供の1人が乳児を背負って登校していた。その乳児は、いつもは静かに教室の隅で寝ていたが、このときは激しく泣き喚いた。菊栄は意を決して乳児を抱き、胸をはだけて乳を吸わせた。視学は菊栄の授乳姿を見て、「おんしゃあ、名前は誰言わぁ!」と激怒したが、菊栄は彼を見向きもせず「岡上菊栄と申します」と答えたのみで、平然と授乳を続けた。視学は校長室へ駆け込んで「学制発布以来の大不祥事である!」と激怒したが、校長は視学の怒りに驚きながらも「岡上先生には何も言えん」との思いで、村人たちや子供たちから信頼されている菊栄を讃えた。この一件で、菊栄の存在は高知県内の上層部の教育者の耳に届くまでになった。 この安芸第二尋常小学校の在任期間は、菊栄の約20年間の教員生活中のわずか1年程度に過ぎないが、菊栄にとっては非常に印象的だったようである。生徒の親たちは、後述する高知博愛園の赴任を知ると、菊栄に学校に留まるよう懇願したが、菊栄が「この生徒たちよりもっと不幸な子供がおり、私はその子供たちに尽くしたい」と説くと、親たちは納得し、「その仕事には先生が適任じゃ。先生のことは生涯忘れません」と菊栄を激励し、菊栄を涙させた。菊栄が安芸を舟で発つ際には、村民一同が見送り、その1人の船に銅貨を投げ入れると、それを合図にした如く、賽銭のように多くの硬貨が船に投げ入れられたと、菊栄が後年に自著で述懐している。村人の1人は後に「岡上先生ばあ、儂らあをやしべんと(馬鹿にせず)つき合うてくれた人間は、誰っちゃあおらざった」と振り返っている。 なお、この安芸のような恵まれない子供たちの受け皿として、高知に私設の育児園が明治30年代頃より存在していたが、子供を養育する団体として正常に機能しているとは言い難い状態であった。岡山県には「孤児たちの父」ともいわれる石井十次による岡山孤児院があり、菊栄は密かに「岡山の孤児院で働きたい」との考えを抱いていた。
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