教員時代から並里総代就任まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 09:19 UTC 版)
「當山久三」の記事における「教員時代から並里総代就任まで」の解説
師範学校を卒業した久三は、羽地尋常小学校(現在の名護市立羽地小学校)に赴任。1893年、自らの母校である金武小学校に転任し、首席教員となる。しかし、本土出身の同僚教員の沖縄人差別に憤慨し、国頭郡長に抗議したがこれも聞き入れられず、1895年、ついに自ら教職を辞した。 久三は村民の要望を受け、地元・並里の総代(各村に置かれた予算協議会の構成員)に就任した。給料は教員時代の14円から4円に激減したが、この時期の久三は、カタカシラやハジチなど沖縄古来の習俗の廃止や、冠婚葬祭の簡素化、金武小学校新校舎建設用地の開墾などに熱心に取り組んだ。村民の中には、久三の大胆な改革姿勢に反発し、中傷したり暴行を加えたりする者もあったという。久三はその後、総代も辞し、一人で山にこもり晴耕雨読の生活にふけった。のちに久三の盟友となる平良新助は、中学在学中の1896年秋ごろから、幸地山(現在の金武ダム付近)に閑居する久三を足しげく訪ねたと語っている。
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