教員生活と満州時代(1921-1946)
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1921年(大正10年)3月に東京高師を卒業した大浦は翌4月より大分県女子師範学校(現・大分大学教育学部)教諭に着任した。続いて1923年(大正12年)に奈良県師範学校(現・奈良教育大学)教諭を務めた後、満州に渡る。 満州へ移った大浦は、1924年(大正13年)4月に安東高等女学校の教諭に就任、1936年(昭和11年)4月には校長に昇任した。1937年(昭和12年)4月には新京敷島高等女学校、1940年(昭和15年)4月には新京第二中学校、1941年(昭和16年)4月には吉林中学校へ転勤し、いずれも校長を務めた。1942年(昭和17年)11月からは在満教務視学官を務め、終戦を迎えた。 満州には家族で来ていたが、官職にあった大浦は満州から離れることはできず、妻子のみ軍の手引きで平壌へ避難した。満州に残った大浦は筆舌に尽くしがたい苦しみの連続を味わったという。この間、妻のタマ子が1946年(昭和21年)4月18日に、娘の京子が同年5月10日に相次いで亡くなっている。同年8月、残された大浦の子供の帰国許可が下り、10月には大浦の職が自動的に解かれ、日本に引き揚げた。
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