高知商業高校時代とは? わかりやすく解説

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高知商業高校時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:17 UTC 版)

中山裕章」の記事における「高知商業高校時代」の解説

高校進学の際には高知商高以外にも明徳義塾高校など高知県内の高校野球強豪校から進学誘い受けたが、「自宅から通える」という理由高知商高進学女房役岡村甲子園舞台で活躍することに憧れ1978年夏の甲子園準優勝遂げた高知商高進学した高知商高1年生時の1983年春、谷脇新入部員中山見て「彼がいれば5回甲子園へ行くチャンスがあるうち、3回行けるそのうち1回優勝できる。夏の全国制覇も夢ではない」と確信した中山もその期待違わず入学直後からベンチ入りし、同年夏の甲子園では早くも同校高知県代表)のエース津野浩3年生)の控え投手としてメンバー入りした。中山桑田真澄清原和博KKコンビ)を擁するPL学園大阪代表)との準々決勝戦津野リリーフして甲子園初登板し、それ以降プロ野球関係者から「土佐怪腕」と注目集めた一方でこのころから持病腰痛苦しみ走り込み十分にできなくなっていったことで体重増加するようになった津野引退した同年秋にエースとなったが、それ以降故障続き2年生1984年夏には県大会初戦高知高校敗戦した。中山岡村らが最上級となった2年生秋の県大会当時高知県内の高校には渡辺智男伊野商業高校)をはじめ、全国屈指の逸材揃っていたため、甲子園の土を踏むことは容易なことではなく同大会では準々決勝渡辺擁する伊野商に敗れ翌年センバツ出場逃してしまった。この試合直後谷脇は「残されチャンスはあと1つ1985年夏の甲子園しかない」と考え中山岡村それぞれ「お前は甲子園に行かなければいけない」、「毎朝中山一緒に高知城までランニングしてこい」と命じた谷脇このように中山猛練習課した理由は、中山について「素質桑田より上だが、最後勝負どころで力以上のものが出せなければ甲子園では活躍できない。それが出せるのは、普段から他人やらないことをやる者だけだ」と考えていたが故だった。 また、中山自身腰痛苦しむ中で高知市内の整体師通い、鍼・電気治療などを2年間かけて行った3年生となった1985年春、高知商高同年センバツ優勝となった伊野商を破って春季四国地区高等学校野球大会進出し四国大会圧勝優勝した同年夏、エース中山岡村バッテリー組んで全国高等学校野球選手権高知大会勝ち進み決勝戦センバツ優勝校の伊野相手雪辱果たして5対1で勝利し夏の甲子園への出場果たした

※この「高知商業高校時代」の解説は、「中山裕章」の解説の一部です。
「高知商業高校時代」を含む「中山裕章」の記事については、「中山裕章」の概要を参照ください。

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