高校入学からプロ入りまで
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日大藤沢高時代は推薦入部だけでも姓が「ヤマモト」の部員が3人おり、山本は出身中学が「松林中学」であったことから「ショーリン」と呼ばれていた。高校2年夏、高校3年夏共に、神奈川大会準々決勝敗退。特に前者の敗戦は2009年の時点では山本が「野球人生で最も泣いた試合」であった。2013年の第95回全国高等学校野球選手権大会優勝校・前橋育英監督の荒井直樹は1年先輩で、当時ともに8キロのロードワークをこなすようになってから力が付いたと感謝している。当時の日大藤沢高の野球部監督・香椎瑞穂に関して山本は「雑誌や本で突出した実績を調べたが、不思議と怖さはなかった。難しいことも言われなかった」という趣旨の人物評を出している。 高校時代は春・夏とも甲子園出場こそできなかったが、3年次・1983年夏の神奈川大会では「県下ナンバーワンの左腕投手」として注目されベスト8入りを果たし、日韓親善野球では神奈川県代表の一員に選抜された。 香椎は山本を同期の別の部員一人とペアで日本大学に推薦する。山本本人も高校卒業後は日本大学経済学部に進学し教師を目指すつもりでいた。しかし神奈川県高校選抜チームの一員として韓国高校選抜チーム相手に好投したことなどが評価され、1983年のドラフト会議で中日ドラゴンズから5位指名を受けた。指名を受けた直後は『神奈川新聞』の取材に対し「進学しか頭になかったし、指名されるなんて思ってもいなかったので驚いている。監督・両親とよく相談する」とコメントしていたが、香椎に「おまえならプロでやっていける」と激励を受け、また山本のプロ入団がペアで推薦されていた別の部員の進学に支障を来さないこととなったこと、父親が長野県出身の中日ファンだったことが最終的に大きな決め手となり「おやじが喜ぶ」と入団を決意した。当時の契約内容は契約金2500万円・年俸300万円だった。 山本はドラフト指名を受けた旨を教師から伝えられた当初は「地元・神奈川県の横浜大洋ホエールズじゃないんだ」という印象を抱いていたが、2013年に山﨑武司とともに共著として出版した『進化』(あさ出版)にて「ドラフトから30年経った今では中日に入ってよかったと思っているし、中日以外の球団だったらとうの昔に野球をやめていただろう」と述懐している。
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