駆逐される正義派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)
10月3日、敬親は山口を発し萩へ向かう。政務員や俗論派の実戦部隊である撰鋒隊も帯同する。山縣ら奇兵隊幹部は、いまだ山口に滞在していた藩主の息子である毛利元徳に拝謁し、建議書を提出して萩行を止めるよう求めたが受け入れられなかった。 10月4日、元徳も山口を発し萩へ向かい、山口に残る藩重役は浦元襄のみとなる。俗論派は萩に移った藩主を手中にし、萩・山口を掌握してゆく。 10月5日、徳川慶勝は征長軍総督の任を受諾し、大阪にて征長軍の軍議を開くことを諸藩に周知した。 公爵山縣有朋伝によると同日、俗論派が藩を壟断する状況に危機感を覚えた奇兵隊軍監・山縣狂介は、三田尻に駐屯している奇兵隊を他所へ移動させることを考え、石州国境に至るまでの方々の地形を視察したという。ただし公爵山縣有朋伝は山縣没後に作られた伝記で、功山寺挙兵の段には他資料と矛盾する点が多くある。 10月7日、山口にて福岡藩・薩摩藩の斡旋を知らされた吉川は、部下に書簡を持たせ広島の高崎の下へ派遣し、征長軍との交渉を依頼する。 10月9日、正義派の毛利登人、大和国之助、前田孫右衛門、渡辺内蔵太らが謹慎となる。 10月11日、奇兵隊と膺懲隊は、藩政府の命令により、幕軍侵入に備えて徳地の要害に退却した。 公爵山縣有朋伝によると同日、山縣らは俗論派の台頭を警戒し、藩政府に無断で奇兵隊・膺懲隊を徳地へ移動させることを検討したとあるのみで、史料に矛盾がある。 10月13日、正義派の山縣半蔵、小田村素太郎(後の楫取素彦)、寺内暢蔵が罷免される。 10月17日、高杉晋作が政務役を罷免される。 10月18日、宮市を通過する吉川経幹に面会した山縣は、拝謁して武備恭順の建議書を提出した。さらに山縣は、但馬の脱藩浪士からもたらされた京都の情勢を吉川に報告した。 10月20日、徳地に移動した後、奇兵隊総監である赤禰武人は諸隊に七ヶ条の要目を出し、周辺住民の慰撫と諸隊の綱紀粛正に努めた。さらに諸隊幹部は諸隊の隊員が一人で外出する事を禁じ、隊員に送付される手紙はすべて幹部が検閲した。徳地への移転についても「剛健質実の気象を振作し、誓て文弱氣死の風習をせん」と述べている。 公爵山縣有朋伝によると、奇兵隊と膺懲隊が三田尻を引き払い徳地に移ったのはこの日であり、俗論派の影響を避けるために藩の命令を得ず兵を動かした独断行動であったとされる。さらにこの時、俗論派は山口を未だ掌握しきれておらず、山縣は山口に残留していた所帯方頭人(米銀出納事務を取扱う役職)に面会し、奇兵隊一年分の給与の前払いを依頼し、その給付を受ける事に成功したとある。上述の通り矛盾しており、どちらが正しいかは不明である。 同日、幕府は毛利藩主父子の字偏諱と官位の剥奪を通達する。
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