馬の発見と使用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 23:08 UTC 版)
1730年頃まで、ブラックフットは荷物は犬に運ばせ、徒歩で移動していた。彼らはこれまで馬を見たこともなかったが、ショショーニ族といったすでに馬を導入していた他の部族から馬が持ち込まれた。彼らが馬を活用しているのを見て、ブラックフットもそれを欲するようになった。ブラックフットは馬を「ポノカミタ(ponokamita) 」と呼んだ。馬は犬よりもより重い荷物を運ぶことができ、移動速度も速かった。 馬はグレートプレーンズの暮らしに革命をもたらし、財産の尺度として考えられるようになった。戦士は最も良い馬に乗り、定期的に他の部族を襲った。馬は物々交換の世界共通の基準としても広く用いられた。呪術師は馬に治療を施した。馬の数が増えれば個人の財産も増えるが、多数の馬を所有した者はいなかった。個人の名声や地位は他人に贈った馬の数により判断された。グレートプレーンズで生活していたインディアンにとって、財産の価値は主にそれを他人と共有するところにあった。 グレートプレーンズ北西部でショショーニ族、アラパホ族と敵対関係になった1800年頃から、クリー族との毛皮交易を巡って激しい争いが起こり、しばしば軍事的な戦闘に発展した。どちらの部族も1730年頃には馬を導入しており、そのため18世紀半ばまでには馬の十分な供給が生き残るための問題となっていた。この段階になると、馬泥棒は度胸の証としてだけでなく、しばしば生き残るための必死の貢献となった。 クリー族とアシニボイン族はブラックフットと同盟を結んでいたグロヴァント族(クリー族の言葉では「素早い人」を意味するPawistiko Iyiniwakと呼ばれた)に対抗するため、馬に乗り続けた。グロヴァント族は敵の襲撃に対して銃器で抵抗した。敵に武器を供給していたハドソン湾会社への報復として、グロヴァント族は1793年に現在のサスカチュワン州セントルイス付近にあった、サウスサスカチュワン川に面したサウスブランチハウスを襲撃し、火を放った。当時、彼らはモンタナ州のミルク川から南へ移動していた。ノースサスカチュワン川とバトル川(川の名前はこれら2つの対立した部族が戦ったことに由来する)にかけての範囲がブラックフットとグロヴァント族の領域であった。
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