顕密両学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 06:10 UTC 版)
前述のように、天台法華宗には止観業(天台)と遮那業(密教)の各1名の年分度者が認められた。これは最澄が顕(天台教学)と密(密教学)の合同を最終の理想としていた為と考えられる。 止観業とは智顗が著した『摩訶止観』に由来する。『摩訶止観』は仏道修行の基礎的な規範を記したもので、実践と修行の立場から法華経を解釈したものとされる。最澄は『勧奨天台宗年分学生式』に「止観業は四種三昧を修習せしめ(後略)」と記すように、『摩訶止観』に記される実践行である四種三昧の実践を重視していた。そして実践の場として最澄は四種三昧堂の建立を図ったが、この堂は『弘仁九年比叡山寺僧院之記』に一乗止観院に続いて記されていることから延暦寺伽藍構想においても重要視されていたことが分かる。 四三昧院とは円観を学する者の住する所の院なり。文殊般若経に依りて常坐一行三昧院を建立し、般舟三昧経に依りて常行仏立三味院を建立し、法華経等に依りて半行半坐三昧院を建立し、大品経等に依りて非行非坐三味院を建立す。(中略)明らかに知りぬ、四三昧院とは行者の居する所なり。春秋は常行、冬夏は常坐、行者の楽欲に随いて、まさに半行半坐を修し、また非行非坐を修すべし。 — 最澄、『顕戒論』 東塔の半行半坐三味堂(法華三昧堂)は最澄が弘仁3年(812年)に建立したとされるが、常坐一行三昧堂(文殊楼)、常行三昧堂、非行非坐三味堂(随自意堂)は最澄の没後に完成する。のちの天台宗では法華堂は座禅道場として重視され、常行堂は浄土信仰の素地となった。しかし、それ以外の三昧堂はさほど重視されることがなかったと考えられる。 一方の遮那業は『摩訶毘盧遮那神変加持経業』に由来する。最澄が唐から伝えた密教は不十分なもので空海に助力を請うたが、教義の完成を果たせなかった。のちに天台密教は円仁と円珍の入唐により研究が盛んになり、安然によって完成され、その後100年あまりは天台密教が隆盛する。その一方で、円仁は空海の顕密二教判(密教が顕教より優れるとする説)を一部取り込み、最澄が掲げた顕密両学(円密一致)は崩れていく。止観業が見直されるのは延暦寺中興の祖とされる良源が現れる10世紀中頃となる。
※この「顕密両学」の解説は、「最澄」の解説の一部です。
「顕密両学」を含む「最澄」の記事については、「最澄」の概要を参照ください。
- 顕密両学のページへのリンク