順拝バス以降の四国遍路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 06:17 UTC 版)
「伊予鉄順拝バス」の記事における「順拝バス以降の四国遍路」の解説
運行開始当時においてきわめて革新的だった伊予鉄道の順拝バスは、のちの遍路に大きな影響を与えたことが指摘されている。 第一に、伊予鉄道の順拝バスの成功に倣って、他のバス会社でも貸切バスで四国八十八ヶ所を順拝するツアーが企画されるようになった。伊予鉄道が順拝バス第一号を走らせたのと同じ1953(昭和28)年には、早速コトサンバス(現 琴参バス)(香川県)が巡拝バスを運行開始している。愛媛県下で伊予鉄道に次いだのは今治市に本社を置く瀬戸内バスで、1956年(昭和31年)に順拝バスを運行開始した。その後順拝バスの運行は四国各地のバス会社において見られるようになった。現在では阪急交通社やクラブツーリズム、読売旅行など、四国外でも八十八ヶ所巡拝バスツアーを企画する旅行会社が多く存在している。 第二に、遍路の巡礼そのものの価値観の転換をもたらした。従来遍路において重視されてきたのは霊場を巡る道中であり、四国一周に及ぶ長い道のりを歩くという行為に内在する苦行性こそが、修行としての本質であった。しかしバス遍路では行程のほとんどをバスで移動するため、徒歩の区間はごく一部に過ぎず、相対的には「「楽の思想」に裏打ちされた遍路」(長田ほか(2003))といった性質を有している。すなわち徒歩による遍路において必然的に存在していた道中の苦行性は、バス遍路において大幅に軽減された。苦行性の代わりに重視されるようになったのが、弘法大師の霊蹟めぐりとしての側面であり、そのため四国遍路は行楽としての様相が増大したと指摘される。もっともこのことは単なる批判的材料ではなく、四国遍路が現代に生き残るための必然であったともされ、貸切バスで札所を回るという新たな巡礼形態は、巡礼行為の敷居を下げて四国遍路を大衆化することに大きく寄与したといえる。 伊予鉄道およびその関連会社は、順拝バスの運行に関連して、四国霊場会とのつながりも培われている。四国霊場会が立ち上げた先達制度では企業第一号の公認先達となったほか、真言宗の諸山からたびたび推薦状を受領している。また伊予鉄グループの伊予鉄不動産が月刊誌「へんろ」を発行しているが、これは定期的に刊行される四国遍路の情報誌として唯一のものである。
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