隼人と南島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:29 UTC 版)
詳細は「隼人」を参照 九州南部は、古墳時代に地下式横穴墓・板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)・土壙墓などの独特な墓制が出現した地域であり、この地域の人々は古くは熊襲、7世紀後半ごろからは隼人と呼ばれるようになる。5世紀末ごろから徐々に大和政権の影響が浸透していたが、大宝律令が施行された時点でも依然として律令制的支配の及ばない地域だった。699年に三野城・稲積城が築かれ、律令国家は軍事力を背景とした支配を進めはじめる。709年には隼人の朝貢制度が始まり、朝廷において蝦夷とともに異民族たる「夷狄」が服属していることを示す。国家の儀礼において重要な役割を与えられた。しかし支配への抵抗も強く、特に720年には7年前に新設された大隅国の国守陽侯史麻呂が殺害される事件が起こった。これに対して律令政府は大伴旅人を大将軍として大規模な軍を派遣後、翌年までかかって鎮圧した(隼人の反乱)。その結果722年にははじめて造籍が行われ、以後隼人の組織的な抵抗はなくなった。ただ奈良時代における隼人はあくまで朝貢の対象であり、大隅・薩摩の両国に班田が行われるのは、平安時代に入った800年(延暦19年)のことである。 一方今の南西諸島からは、すでに7世紀の前半から使者が大和政権に「朝貢」するようになっていたが、698年には覓国使が南島に派遣され、翌年多褹(種子島)、夜久(屋久島)、菴美(奄美大島)、度感(徳之島)が朝貢に訪れ、702年には行政組織としての多禰島が設置された。南島からは工芸品の材料となる夜光貝や赤木といった特産物がもたらされ、また南島へは鉄器がもたらされた。大宰府跡からは「掩美嶋」(奄美大島)・「伊藍嶋」(沖永良部島か)と書かれた木簡が出土しており、また奄美大島奄美市の小湊・フワガネク遺跡から夜光貝による貝匙製作跡が見つかっている。9世紀になると「国なくして敵なく、損ありて益なし」といわれたように律令国家の関心は薄くなっていった。
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