隼人と関連が指摘される文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 07:45 UTC 版)
群馬県高崎市長瀞西古墳(5世紀前半)出土の鉄鏃の中に、南九州と近畿を中心に出土するタイプである「二段逆刺鉄鏃」が見られており(1995年時点で群馬県でも2例が確認されている)、かつては隼人と関連する鏃ではないかとの指摘があった。 蛇行剣。「地下式横穴墓」や「板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)」から蛇行剣の出土が比較的多いことに由来する。ただし前述のように、隼人と地下式墓制を関連付けて論じられない現在、どの程度有効性のある学説か疑問がある。 日向駒 - 『日本書紀』に推古天皇が「駒ならば日向の駒」と歌を詠んだ記事が見られるが、当時の日向は大隅・薩摩を含んだ地域であり、森浩一は「隼人の馬」を指すものではないかと指摘している。この時代の南九州はまだ征圧が確定的ではない為、内国の馬とは区別視されたものと見られる。また、『新撰姓氏録』には額田部の先祖伝承で、允恭天皇の治世、薩摩と戦をしている時、額に「田」という字のつむじのある馬を手に入れ、天皇に献上したので、額田という名を与えられたとの記述があり、隼人の馬である事から、南方に繋がるものとの推定もある。これらの記事からも、隼人の馬が文化的にも内国とは別の扱いを受けていた事がわかる(現在でも、地理的・風土的特色から御崎馬が存在している)。この時代の日向馬が大和に送られたことは遺骸からも判明しており、大阪府四條畷市の蔀屋北遺跡からは全身骨格(体高125センチ、5世紀頃)が出土しており、御崎馬の類と見られている。ただし、この馬の全身骨格については、歯の形状が木曽馬に近かったことも指摘されている。
※この「隼人と関連が指摘される文化」の解説は、「隼人」の解説の一部です。
「隼人と関連が指摘される文化」を含む「隼人」の記事については、「隼人」の概要を参照ください。
- 隼人と関連が指摘される文化のページへのリンク