隼人の考古学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 07:45 UTC 版)
考古学的には、古墳時代の鹿児島県・宮崎県境周辺の九州南部に地下式横穴墓などの「地下式墓制」が分布することから、かつてはこれを隼人と関係づける説があった。 それによると、隼人の墓制は3種類あるとして、薩摩半島南部の「立石土壙墓」を阿多隼人、薩摩半島北部の「板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)」を薩摩隼人、そして日向・大隅に分布する「地下式横穴墓」を日向・大隅隼人の墓制にそれぞれ対応させるというものであった。 しかしこれら九州南部の地下式墓制を隼人と関連付ける考え方は、1960~80年代にかけて隆盛したが、1990年代以降は文献と考古資料の安易な結びつけや、少なくとも飛鳥・奈良時代の「隼人」の概念を古墳時代中期~後期の地下式墓制にまで波及させる考え方について地元九州地方の研究者や学会から疑問や批判が強まり、2000年代以降の考古学・文献史学からは有力な学説と見なされていない(地下式横穴墓・板石積石棺墓・立石土壙墓の項も参照)。なお、隼人が文献上多く登場してくる7世紀後半~8世紀代の墓の遺構については、現地九州南部ではほとんど検出されておらず、確実に「隼人の墓」と位置づけられる墓制は、現状では不明といわざるを得ない。 また、南山城地域、京都府京田辺市大住の男山丘陵から横穴墓が多く発見されていることについても、隼人と関連付ける説があった(本来、山砂利を取る地域であり、横穴は掘りにくい地域の為、隼人墓制と対応するとされた)が、考古学上、横穴墓と地下式横穴墓が別物であるうえ、隼人がいた九州南部には横穴墓がほとんど分布しないため、関連性に疑問がある。
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