隔週刊化
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『ぴあ』に掲載する情報は増える一方だったが、製本コストを抑えるにはページ数を増やすわけにいかず、そのたび活字を小さくしていったが遂に限界に達し、情報の量とスピードに応えるためにも、月刊誌『ぴあ』は1979年に隔週刊化した。部数減を覚悟していたものの、逆に部数は伸びた。 この頃から学生の間で急速に『ぴあ』が広まり始め、多くの若者がいつも持ち歩くようになった。また「花金」という言葉が生まれたように、街での消費活動へ社会の関心が高まり、週末の娯楽の情報源として『ぴあ』の存在感は増していった。 1970年代末にビデオテックスが実用化されると、矢内は情報流通の主戦場がいずれ紙からコンピュータ・ネットワークに取って代わられかねないと危機感を持ち、郵政省や電電公社によるキャプテンシステムへの実験参画(1979年12月)、DTP への移行(1980年12月)など積極的に対応を進めていった。また矢内は、公演情報に興味を持ってもチケットを買いに行くのが面倒・買い方が分からないという人が意外と多く、興行界がかなり商機を逃していることに以前から気付いていた。ぴあ社が蓄積したニューメディアのノウハウと集まってくる公演情報を結び付け、チケットを簡便・迅速に発行するシステムを矢内は構想した。かくして1984年4月に「チケットぴあ」が本格的にローンチした。プレイガイドに行きづらい会社員でも本誌を見ながら電話でチケットを予約できるようにしたこのシステムは開始から一年で本誌の売り上げを凌ぐほど急成長し、ぴあ社にとって「第二の創業」といえるほどの成功となった。チケットを短時間で大量発行できるようになったことで、大量動員する大規模音楽イベントやロングラン公演などが増加し、そうやってマスが増えたチケットを買うために本誌を買うという相乗効果も生まれ『ぴあ』はさらに部数を伸ばした。加えて興行関係の情報が一気に集まるようになり、『シティロード』や『angle』(主婦と生活社)など競合誌との差を圧倒的なものにした。 今や『ぴあ』は情報化社会の先端を走るメディアとして若者文化の「ライフライン」となり、大学生協にうず高く平積みされ、1988年10月14日に発売された「秋の学園祭超特大号」は最高実売部数53万部を記録した。若者による『ぴあ』の幅広い受容から、この頃には「ぴあの時代」「ぴあ文化」という言葉すら生まれた。
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