長十郎体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 06:41 UTC 版)
1931年 暮 荒次郎が退団。幹事長に四代目河原崎長十郎を選出 1932年 市村座の提案で「忠臣蔵」を上演。興行成績は大成功。劇団発足後初めて経済的に潤う。以後歌舞伎に力を入れる 5月 市村座が火事で焼失。再建せず JOAK東京放送局(NHKの前身)にユニット出演。以降この形式が貴重な収入源となる 1933年 9月 浅草公演劇場公演がキャンセルされたことを奇貨として、映画「段七しぐれ」(原作:長谷川伸、トーキー)を製作、映画初進出 11月 市川宗家(市川團十郎家)の了承なしで歌舞伎十八番のうち「勧進帳」を上演。 (新橋演舞場にて。弁慶:四代目長十郎、富樫:三代目中村翫右衛門、義経:五代目河原崎國太郎) 1934年 2月 五代目國太郎が「お染の七役」を復活(新橋演舞場) 沢村いき雄らが退団 1935年 日活映画と業務提携 10月 「悲恋の白拍子」(大阪浪花座)中のラブシーンが警察官に咎められ、検挙されかかる 1936年 江戸を舞台にした赤毛もの歴史劇「シーボルト夜話」を上演。成功を収める 歌舞伎十八番より「助六」を上演(助六:四代目長十郎、意休:三代目翫右衛門、揚巻:五代目國太郎。長十郎は本水に浸かった)。以後、歌舞伎十八番ものの上演に関して市川宗家はすべて許可 1937年 初めて真山青果作品を上演 PCL映画に劇団としてユニット出演。以降この形式が貴重な収入源となる
※この「長十郎体制」の解説は、「前進座」の解説の一部です。
「長十郎体制」を含む「前進座」の記事については、「前進座」の概要を参照ください。
- 長十郎体制のページへのリンク