鉄山
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鉄山(てつざん、かねやま)
語句
地名など
- 鉄山(てっせん) - 大峰山の山(標高1563m)。
- 鉄山(くろがねやま) - 奥秩父山塊の山(標高2,531m)。
- 鉄山町 - 北海道函館市の町字。湯川町 (北海道)および亀尾村を参照。
- 鉄山 (真庭市) - 岡山県真庭市の町丁。
- 鉄山郡(チョルサンぐん) - 朝鮮民主主義人民共和国平安北道の郡。
- 鉄山駅(チョルサンえき) - 大韓民国京畿道光明市にあるソウル交通公社7号線の駅。
- 鉄山区 - 中華人民共和国湖北省黄石市の市轄区。
- 鉄山鎮 (南平市) - 中国福建省南平市政和県の鎮。
- 鉄山鎮 (重慶市) - 中国重慶市大足区の鎮。
- 鉄山街道 - 中国各地にある街道弁事処。
- 鉄山郷 - 中国各地にある郷。
人名
フィクション
- 倉間鉄山 - 特撮テレビドラマ『バトルフィーバーJ』の登場人物。バトルフィーバー隊の最高司令官。
鉄山
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山県郡の製鉄遺構は、11世紀に操業していたとされる北広島町大矢遺跡が最古であり、つまり隅屋以前から鉄山業を行なわれていたことになる。『加計万乗』には、寛永19年(1642年)隅屋に鍛冶屋の存在が確認でき、貞享4年(1685年)戸河内村にあった広島藩営鈩を隅屋に譲渡されたことが書かれていることから、遅くとも貞享・元禄年間には隅屋は鈩・鍛冶屋双方を持つ鉄師となったと考えられている。広島藩が鉄師に鈩札・吹屋札・吹屋馬札などの営業札を与えて、それに対して鉄師が運上金を払うという方法で藩から管理・保護されていた。 隅屋含めて山県郡内の鉄師は原料となる砂鉄を得るため、広島藩内にとどまらず国境を超えて石見国(島根県西部)に求めていった。その理由は、寛永5年(1628年)から広島藩では広島城の堀が埋まるのを防ぐ目的で太田川上流域である山県郡での鉄穴流しが禁止されたため、山陰側の砂鉄は山陽側と比べて良質であったため、浜田藩・津和野藩ともに管理・保護は弱かったため、である。具体的には井野・鍋石・大坪・雲月・都川(すべて現浜田市)、矢上(現邑南町)などから砂鉄が運び込まれている。鈩への物資輸送は「粉鉄7里に木炭3里」の範囲内で採算が取れるとされているが、加計から最も遠い井野(室谷)はそれ以上になるため、輸送コストより鉄の質の方を選択していたと推定されている。 「たたら製鉄」も参照 隅屋での製鉄は、鈩でほぼズク(銑鉄)を生産しケラ(鉧)はほとんど生産せず、ズクを鍛冶屋で割鉄(錬鉄)にして出荷、という方法(銑押し法)が取られた。鈩は、奥出雲御三家の場合はほぼ同じ場所で操業していたが、隅屋はおおよそ10年単位で燃料となる木材を切り尽して他の場所へ移るという方法が取られた。そのままでは木材が枯渇するため森林経営も行っている。再び木が生え揃う60年後ぐらいに元の場所に戻って鈩を操業した例もある。鍛冶屋はほぼ鈩に併設する形で運営され、中には単独で運営された例もある。製鉄専属労働者が居住する地区を「山内」というが、隅屋の場合鈩が1軒・鍛冶屋が2軒操業した場合で山内に300人から400人ぐらいが住んでいた。これは当時の山県郡1村あたりの人口とほぼ同じぐらいになる。 なお山県郡の鈩・鍛冶屋の中心地は隅屋の居村の加計村ではなくその西隣の戸河内村(現安芸太田町)であり、隅屋は戸河内以外では、鈩は橋山・東西八幡(現北広島町)で、鍛冶屋は加計・橋山・雲耕・大暮・東八幡・川小田(加計が安芸太田町、その他が北広島町)で操業した。19世紀以降に石見でも鈩を操業し、ケラや鋼を重点的に作り出そうとしていた鈩もあり、のち石見の鉄師に売却した例もある。背景には、浜田・津和野藩ともに営業税を払えば誰でも参入できたことがある。
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「鉄山」の例文・使い方・用例・文例
- 日本に鉄山の無いのは歎かわしいことだ
- 鉄山
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