録音、撮影
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製作はレコーディングから始められた。1974年1月、タウンゼントはメンバーを集結させ録音を開始したが、作業量が膨大な上、当時はキース・ムーンが体を壊しており、多くのゲストミュージシャンに協力を頼む事になった。レコーディングではオリヴァー・リードの歌唱があまりにひどく、彼の歌撮りは一節一節に区切って撮り、その後編集するという手法を採った。レコーディングでは難儀したリードであったが、撮影になると完璧に歌い上げ、タウンゼントは大変驚いたという。タウンゼントはニコルソンもリード同様に不安視していたが、ニコルソンが楽しげに歌っているのを聴いて何とか安心したという。レコーディング後、ニコルソンは「疑ってたろ?」とからかい、タウンゼントはそれに「当然だろ」と返したという。 撮影は1974年4月に開始。ロケーションは主にポーツマス周辺で行われた。物語の舞台を第1次大戦時から第2次大戦時に変えたのはラッセルであった。理由についてラッセルは「そのほうが身近に感じられるし、私自身も身をもって経験している」からだとしている。また「光を与えて」や「トミーのホリデイ・キャンプ」で出てくる障害者たちは全員本当の障害者であり、ロケ場所の近くの病院や施設から出演者を募ったのだという。 撮影中も幾多のトラブルに見舞われた。主演のダルトリーは常に生傷が絶えず、マーグレットも「シャンペン」の中で泡や豆、チョコレートまみれになるシーンで割れたテレビのブラウン管の破片で手を切り数針縫う怪我を負ったが、翌日には撮影に戻った。「ピンボールの魔術師」の撮影はポーツマスのキングス・シアターで行われたが、ここでの観客がステージに流れ込む場面は脚本にはなかった。この時、タウンゼントが放り投げたギターがエキストラの一人の頭上に落ち、病院に担ぎ込まれた。またラスト近くの埠頭の建物の火事は、演出ではなく偶然起きたものである。「俺達はしないよ」の中のノラとフランクが踊るシーンで、数箇所のカットで煙が写りこんでいる。火事の理由についてラッセルは不明だとしている。 演技未経験の上、三重苦の少年という難しい役どころを任されたダルトリーだったが、撮影が進むにつれて楽しくなり「このまま撮影が終らなければいいのに」と思うほどになったという。彼は危険な場所での撮影も臆することなく、搭上からハンググライダーで飛ぶ場面以外は一切の吹き替えも使わなかった(ラッセルはこの場面もダルトリー本人だとしている)。ラッセルはダルトリーの演技を大いに評価し、翌年にはラッセルの次回作『リストマニア』にダルトリーを抜擢している。これをきっかけにダルトリーは俳優としても本格的に活動するようになる。 撮影は1974年8月21日を以て終了した。最後の撮影はヘイリング島とサウスシーで行われた。当初は予算100万ポンド、撮影期間は12週と考えられていたが、最終的に240万ポンドの出費と18週間にも及ぶ期間を要した。編集は1974年11月下旬までかかった。
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