野村証券時代(1974年~1987年)
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「阪中彰夫」の記事における「野村証券時代(1974年~1987年)」の解説
支店勤務を経て1977年より公社債部勤務で一貫したディーラー。扱った商品は日本債券、外国債券、日本企業がユーロ市場・スイス市場で発行する転換社債・ワラント債、米国債先物・オプション、日本国債先物・オプション等。 また、1985年には約1年間米国に長期出張し、米国プライマリーディーラー資格の取得、及びシカゴの先物子会社立ち上げに関わった。その時数多くの米国人脈を築いた。
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野村證券時代
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大学卒業後、野村證券に入社。入社後、フルブライト奨学生としてアメリカ合衆国ペンシルベニア大学大学院に留学し、ウォートン・スクールで経営学修士(MBA)を取得した。帰国後、野村證券外国部次長を経て、1968年にニューヨーク支店長に就任。翌1969年、ニューヨーク支店は現地法人格を有する米国野村證券(Nomura Securities International Inc.)に再編され、寺澤は同社の初代代表取締役社長に就任した。同年、アジア人で史上初めてボストン証券取引所の会員になり、また1973年には、ウォール街への証券投資を日本で初めて手掛けた功績が評価され、ニューヨーク市の市民団体「シティクラブ・オブ・ニューヨーク」から『名誉市民』の表彰を受けた。 その後一旦は日本に帰国し東京で勤務したが、1980年7月、米国野村證券会長に就任し、再びニューヨークへ赴任。翌1981年、日本人で初めてニューヨーク証券取引所の会員になった。1982年、社長公邸に用いるため5番街のメトロポリタン美術館前に高級アパートメントを購入。このアパートメントには国内外のビジネスマンのほか、女優の竹下景子や草笛光子、作家の司馬遼太郎も訪問している。 1987年1月、米国野村證券会長を退任し、日本に帰国。野村證券本社国際部門に復職し、のちに野村證券副社長を務めた。1988年、国際連合の専門機関である多数国間投資保証機関(MIGA)の設立に伴い、当時大蔵大臣を務めていた宮澤喜一や早稲田大学の同級生で大蔵省財務官であった行天豊雄の推薦により、MIGAの初代長官に就任した。
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