重次郎の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 09:47 UTC 版)
恒次は父が築いた東洋工業の発展に尽力し、東洋工業は乗用車部門に進出して、そこでも大きくシェアを伸ばした。1966年、重次郎の育った仁保島の南側が大規模に干拓され、東洋工業の乗用車専門工場が完成した。以降、東洋工業はトラック・乗用車双方を生産する世界有数の総合自動車メーカーの地位を固めた。特にロータリーエンジンの開発に世界で初めて成功した事は、重次郎社長時代以来培った技術水準の高さの証明であった。 1970年に恒次が急死するとその息子、すなわち重次郎の孫にあたる松田耕平が社長に就任した。耕平は1973年に発生した石油危機へ強気の経営姿勢で臨んだが、燃費の悪さからロータリーエンジン車が敬遠されたために会社は大量の在庫を抱え、経営難に陥った。東洋工業は1977年に住友銀行(現・三井住友銀行)からの支援と役員派遣を受け入れ、経営責任を取った耕平は社長を辞任して会長となった。さらに1979年にはアメリカ合衆国の大手自動車メーカーであるフォード・モーターからの資本参加を受け、翌1980年に耕平は会長を辞任して取締役相談役となった。耕平は1994年に取締役からも退き、取締役から松田家の名前が消えた。 しかし、耕平が去った後も技術者の多くは東洋工業に残り、会社の伝統は引き継がれた。重次郎が命名した従来のMAZDAブランドも存続し、1975年にはロゴマークが「m」から現在の「Mazda」となった。1984年には会社名そのものが東洋工業株式会社からマツダ株式会社へと変更された。また、1998年に耕平はマツダの名誉相談役となっている。松田家の人物がマツダの取締役からいなくなり、大株主名簿からも姿を消した現在でも、マツダは重次郎を事実上の創業者として扱い、敬意を表している。 ただし、松田家は現在でも広島県内のマツダディーラー(広島マツダ、アンフィニ広島)の経営に関与しており、マツダとは一定の関係を保っている。
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