都市化と移民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 08:11 UTC 版)
「ハドソン郡 (ニュージャージー州)」の記事における「都市化と移民」の解説
19世紀後半から20世紀初め、ハドソン郡では工業、商業が急激に発展し、人口が増加した。ジャージーシティ、ベイヨン、ホーボーケン、ウィホーケンでは港が建設され、続いて鉄道のターミナルができ、埋め立てによって河岸線が著しく変わり、開発を加速させた。ヨーロッパから移民、特にドイツ語圏の人々やアイルランド(飢饉を逃れてきた)からの移民が人口増を始めさせ、その後も数十年間続いた。 農園や敷地が小分割されて住宅、公共建築、宗教建築に変わって地区が成長した。街路が整備され、幾つかにはトロリーが走った。スティーブンス工業大学やセントピーターズ大学が設立された。 ペンシルバニア鉄道のハドソン川を潜るノース川トンネルが1910年に開通する前は、列車は川の西岸で止まり、乗客や貨物はフェリーや艀でニューヨーク市に渡す必要があった。ハドソン・アンド・マンハッタン鉄道のトンネル(現在はトランス・ハドソン港湾局)への乗り換えが1908年の開通で可能になった。ホーボーケン・ターミナルは1907年にデラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道によってそれまでの駅に代わって建設された国定歴史建造物であり、かつてウォーターフロントに配置された列車・フェリー乗換駅5つの中で唯一現在も運営されているものである。ウィホーケンにあったウェストショア鉄道のターミナル、エリー鉄道のパボニア・ターミナル、ジャージーシティにあったペンシルバニア鉄道の乗り換え場は全て取り壊された。 エリス島と自由の女神像から小さな海峡越しにあるセントラル・ニュージャージー鉄道のコミュニポー・ターミナルは、大量移民の時代に重要な役割を果たした。アメリカに到着したばかりの移民がこの駅からアメリカでの生活に出発した。多くの者は造船所、鉄道、工場、製油所、さらにはマンハッタンの労働搾取工場(スウェットショップ)や摩天楼で職にありついた。アメリカの産業史に名を残すメーカーがこの時期にできた。例えばコルゲート、ディクソン・タイコンデロガ、マクスウェルハウス、スタンダード・オイル、ベスレヘム・スチールだった。 ノースハドソン、特にユニオンシティが「アメリカの刺繍首都」になった。セコーカスは多くの豚飼育場と動物飼料精製工場を誇った。住宅ストック、二戸一住宅や低層のアパートが建設されたのがこの時期だった。自治体の境が最終的に決められ、その中の地区ができた。バーゲンライン、セントラル、ニューアーク、オーシャンなど各アベニュの商店街が著名になった。ジャーナル広場は事業、ショッピング、娯楽のメッカとなり、そこにあった「ジャージー・ジャーナル」から広場の名前が付けられ、ロウズ・ジャージーシアターやスタンリー・シアターなど映画館もできた。
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