都市化と別荘化
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「本庄村 (兵庫県武庫郡)」の記事における「都市化と別荘化」の解説
年世帯数人口明治38年(1905年)488 3021 明治42年(1909年)572 3677 大正3年(1914年)825 4027 大正9年(1920年)1404 6140 大正14年(1925年)1719 8089 昭和5年(1930年)1972 9437 昭和10年(1935年)2285 11141 昭和15年(1940年)2858 13737 元々本庄村は深江と青木の二ヶ所に中心があり、集落間や北側には耕地が広がっていた。しかし明治38年(1905年)に阪神本線が開通し、深江駅と青木駅が開設された事により、仕事を求める労働者や海浜別荘地を求める富豪など村外からの移住者が急増して都市化が進行した。 大正10年代になると深江の東南部、芦屋に隣接する神楽新田(のち神楽町)を中心として別荘・邸宅が並ぶ海浜住宅地となっていった。戦前には十数軒の外国人別荘が立ち並び、神楽町には深江文化村と呼ばれる洋館群が出現した。 これに対し阪神本線から阪神国道(国道2号)までの地域は区画整理がされたものの、宅地化の進行は戦後の高度成長期まで待たれる事となる。 大正10年(1921年)に本庄村は工業地域(神楽町は除く)として神戸都市計画区域へ編入される訳だが、この時、本庄地域に馬蹄型の運河を掘って阪神国道と接させて一大集散地とし、掘削した土砂で深江の海岸を埋立てようという計画があった。この計画は北の本山村と合同の計画で、阪神間唯一の商工業地が目論まれたものの、莫大な工費がかかる事もあってか、実現はされなかった。 こうして深江東部は別荘地として、青木は工業地としての発展を見ることとなった。 本庄の宅地化は阪神間の他の地域と較べれば緩やかなものであったが、甲南工場が爆撃された際や同20年6月5日と8月6日に受けた空襲によって死者436名・負傷者225名が出、青木・深江地区の町屋・長屋や農家や漁師の家屋などの伝統建築の多くが焼失し、跡地には最初バラック、ついでモルタル塗りの簡素な木造建築が建てられた。その後国道43号敷設によって最も繁華な市街が立ち退きを受け、さらに平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災により数少ない伝統的建築が失われた。
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