選挙・辟召・任子制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 13:08 UTC 版)
「貴族 (中国)」の記事における「選挙・辟召・任子制」の解説
中正制度と平行して、漢代以来の選挙制(秀才・孝廉)・辟召制・任子制もまた行われていた。 選挙制は地方官により推薦された人物(秀才・孝廉)に中央において試験を受けさせ、その成績に応じて三等に分類するもので、宮崎はこの成績による分類のそれぞれを仮に甲・乙・丙と名付けている。丙はさらに丙上、丙下に分類され得る。受験者はこの成績によって任官(九品官人法以降は試験の内容に応じて郷品を与える)する。しかし選挙制で与えられる郷品は名目的には最高(甲)で二品を与えることになっていたのであるが、実際にはほとんどが郷品四品であり、また仮に二品が与えられたとしても吏部の方でこれをなかなか任官させず、昇進についても差別されていた。そのため名門の子弟であれば秀才・孝廉に挙げられたとしてもそれを迷惑がって拒否することも多く、選挙制は概ね寒門・寒人層が応ずることになった。これに対して、梁武帝は門地二品の場合、通常20歳で任官(起家)し、寒門の場合は30歳で任官するものであったが、これを一律30歳での任官(後に25歳に緩和)とした上で、試験を受けて通過した者には年齢制限なしで任官できるという餌を付けることで名門子弟にも試験を受けさせるようにした。この制度は試験制度の不備や寒門に対する差別待遇等、あくまで貴族主義に拠って立つものであったが、貴族は門地故にでなく貴族的教養によって貴いのだという武帝の信念によるものであり、貴族層に居ながらにして任官するのではなく試験を通過して任官することを名誉と認識させたという点で成功を収めた。これは後代の科挙制度に通底する精神に依るものであった。 辟召制は自らの府を構える大官あるいは刺史・太守など地方長官が自らの幕僚として登用する制度である。府とは大官が自ら構える独立の官衙のことで三公及び上級将軍に許された。将軍には方面軍の長官としての都督の職が付随していたが、この都督が西晋代になると行政をも司るようになり、実質州の上に立つ地方の最高行政官となった。都督が構える府を軍府と呼ぶ。概ね地方官は濁として嫌われた役職であるが、辟召した人物が有力者であった場合はその人物との強い繋がりができることは大きな魅力であり、つまらぬ中央の職よりもむしろ好まれた。その後、隋文帝時に辟召は廃止され、地方官も全て中央の任命するところとなったが、唐安史の乱以降に再び藩鎮による辟召が復活した。この場合は貴族勢力に対する新興地主勢力が官職を得る場となった。 任子制(資蔭)は高位の官の子を官として採用する制度である。この制度は前漢初期から行われており、九品官人法の中でも王・諸侯・三公の子にその権利が与えられていた。これが陳では武将を懐柔するためにそれ以下の位にまで拡大された。陳代に明文化された任子制は貴族とは異なる成り上がり者でさえ、その子供を上級官吏に任官させることが可能になった上、貴族でも出世競争に敗れた家はこの恩恵にあずかることができなかったため、むしろ貴族制度の中から異質な要素を生み出すような役割を果たした。しかし、唐代にはその社会的役割も変化した。唐の選挙は突き詰めれば科挙と任子制の併用であったが、科挙が官僚制度を代表し、任子は貴族制度を代表するものとなった。
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