道標派との対決とは? わかりやすく解説

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道標派との対決

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:34 UTC 版)

立憲民主党 (ロシア)」の記事における「道標派との対決」の解説

1907年1月から国会選挙が再び行われ、この選挙において、カデットは、社会革命党メンシェビキ人民社会党英語版)(エヌエス)とのあいだで選挙協力行おうとした。しかし、カデットは自らが指導的な立場となることを主張したため反発招き、この交渉失敗終わったという。結局社会革命党などの選挙参加影響を受け、カデット勢力後退させ98議席を得るに終る同年2月20日開かれた第2国会において、カデットはより穏健な土地法案提出したが、その一方で政府責任内閣制要求した。 しかし、この国会思い通りにならない見た首相ストルイピンはこれを6月3日には解散させた(6月3日クーデター英語版))。11月1日第3国会開かれた時、カデットはさらに勢力後退させ、53議席を得るに留まった。この第3国会選挙政府有利になるように改正され選挙法のもとで行われており、政府協力的なオクチャブリスト第一党となった第3国会においてストルイピン農業改革法案審議にかけ、カデットはそれに一応は反対したものの、自身土地法案においても明確な差異打ち出すことはできなかった。その背景には、土地強制収用否定的な声が党内にも多くなったという事情があったという。そのため、農民運動において指導的立場社会主義政党奪われることとなったまた、1908年1月時点で、党員数は3万人以下へと激減していた。 政治的影響力低下させたカデット党内では、ストルーヴェ派(ヴェーヒ派、道標派)とミリュコーフ派による抗争起きたストルーヴェ派はストルイピン改革肯定的であり、より保守的な路線をとろうとした。彼らは土地強制収用にも反対していた。一方ミリュコーフ派は新たな革命運動の主導権握ろうとする立場をとったという。その結果1909年11月になると、カデットは「平行運動戦術という新たな方針採用した。これはオクチャブリスト助け借りながら国会内において政府との交渉継続する一方メンシェビキ指導する労働運動とも手を組もうとするものであった党内両派の対立理論的な側面は、論集道標英語版)』(ヴェーヒ)に関する論争現れた。当時のほぼすべてのロシア知識人読んだと言われる道標』は、ストルーヴェ派のカデット党員たちが執筆した論集だった。この『道標』は、宗教道徳といった古い価値観意義強調しこれまでのロシア知識人在り方否定する内容のものであったミリュコーフは、この論集反動的なものだとして強く批判したという。別の党中央委員シャホフスコーイ(ロシア語版英語版)も同様に道標』を批判した道標批判的なカデット機関紙『レーチ』紙と、道標派の日刊紙週刊誌とのあいだでも論争繰り広げられたが、やがて後者論争敗れて次々と廃刊追い込まれていき、道標派はその影響力を失っていった。

※この「道標派との対決」の解説は、「立憲民主党 (ロシア)」の解説の一部です。
「道標派との対決」を含む「立憲民主党 (ロシア)」の記事については、「立憲民主党 (ロシア)」の概要を参照ください。

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