逃げの足銀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:08 UTC 版)
1895年(明治28年)9月25日、24歳の荻野万太郎が初代頭取として、当時の足利町(現足利市)の繊維業者を中心に創業。以後、両毛地区を基盤に発展する。 当時より地元密着・堅実経営で知られ、地元の繊維産業に対する融資は手形割引を中心とする短期貸出により行われた。また融資に際しては、不動産担保は忌避され、担保物権の現金化が迅速に行える棚卸資産担保が好まれた。不渡手形が生じた貸出先があると、行員が昼夜交代で会社の前に張り込み、棚卸資産を手に入れようとする他の債権者を追い払い、素早く処分したため、他行からは「逃げの足銀」「石橋をたたいても渡らない」と言われた。 川崎銀行(三菱銀行の前身)から派遣された亀山甚(後に常陽銀行初代頭取となる)が実質的に経営の指揮をとり、1914年(大正3年)5月に東京支店を開設。地方銀行では初めて本部機能を東京に移し、情報収集機能を強化した。東京川崎財閥との提携では大不況の到来を察知し、1920年(大正9年)、融資額の実に3分の1を回収。その後の昭和金融恐慌による貸倒被害を最小限に抑えた。 1944年(昭和19年)までの戦時統合にて、県内6行を合併・12行を営業譲受し、一県一行となる。これ以降、歴代頭取は日本銀行出身の遠田淳・藤松正憲・関根太郎、日本興業銀行出身の岡一雄と、4代続けて東京財界出身者によって占められたが、彼らは、東京にて昭和金融恐慌を直接経験した世代であり、漫然たる融資を常に諌め足銀伝統の「地元密着・堅実経営」の姿勢を崩さなかった。1967年(昭和42年)、本店を県都・宇都宮市に移転。
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