退位と亡命生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 01:43 UTC 版)
「ミハイ1世 (ルーマニア王)」の記事における「退位と亡命生活」の解説
ドイツが劣勢にまわるとともにアントネスク政権も動揺した。1944年8月23日、ミハイは国防大臣のコンスタンチン・サナテスクらと謀りクーデタ(いわゆるルーマニア革命)を起こしてアントネスクを追放し、連合国側につくことを宣言した。しかしソ連軍による占領を免れることはできず、ルーマニア軍兵士13万人が捕虜としてソ連に送られその多くが消息を絶つなどした。ミハイは親共産党政府の任命を強要されたため、政府から裁可を求められた文書への署名を拒否する「国王のストライキ」で対抗したが、ソ連に加えて米英も政府に従うことを要求したため、政府への非協力を断念した。 1947年12月30日、親共産党の陸軍部隊による包囲のなか、ミハイは事前に用意されていた退位文書に署名し、亡命に追い込まれた。電話回線を切られ、ミハイは国王に忠実な部隊を呼び出すことができなかった。当時のルーマニアではソ連軍の駐留に反対する市民運動が激化して逮捕者が続出しており、一説によれば、ミハイに対しソ連駐留軍のアレクサンドル・ヴァシレフスキー司令官が「退位して国外に去らなければ、逮捕者を処刑する」と脅迫したため、やむなく退位したとも伝えられる。 退位の翌年の1948年にブルボン=パルマ家のアンヌ・アントワネットと結婚した。 亡命当初は「ホーエンツォレルン公」の称号を名乗ったが、すぐに退位は強制であり無効であるとし、ルーマニア国王の称号を再び名乗る。その後反共政権下のスペインに渡り、イベリア航空のパイロットなどをしながら亡命生活を強いられた。1960年代にはリアジェットの創業者であるビル・リアと知り合い、最初の製品であるリアジェット23のテストパイロットとしても働いていた。 1989年のルーマニア革命によるルーマニア社会主義共和国の崩壊後、1992年にようやく一時帰国を許されるも、時のイオン・イリエスク政権に警戒され、再度帰国を阻まれた。1997年に50年ぶりに市民権を回復したが、以後も自宅のあるスイスに住み続け、スイスとルーマニアを行き来する生活を送った。
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