退位と死
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「エズバート (ノーサンブリア王)」の記事における「退位と死」の解説
758年、エズバートは退位し、ヨークの大聖堂に併設された修道院に入った。彼はそこで768年に没したことがダラムのシメオン(英語版)の年代記に記されている。シメオンの『ダラム教会史』によれば、エズバートは大聖堂のポーチ(英語版)に、兄弟のエグバート(766年没)と並んで葬られたという。
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退位と死
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「ムハンマド3世 (ナスル朝)」の記事における「退位と死」の解説
グラナダの三つの隣国が自国に敵対したことでムハンマド3世は国内で著しく評判を落とした。そして1309年3月14日(ヒジュラ暦708年シャウワール月1日、イード・アル=フィトル)に起こった宮廷クーデターによってムハンマド3世は退位し、ワズィールのイブン・アル=ハキームは処刑された。このクーデターにはワズィールの政敵であったアティーク・ブン・アル=マウル、スルターンの21歳の異母弟であるナスル(在位:1309年 - 1314年)を支持するナスル朝の有力者たち、そして憤慨したグラナダの民衆が関与していた。ワズィールは国政の実権を握っていると考えられていたため、その政策や贅沢な暮らしぶりが民衆の怒りの対象となっていた。グラナダの人々はスルターンとワズィールの宮殿を略奪し、アティーク・ブン・アル=マウルは自らの手でワズィールを殺害した。ムハンマド3世は生存を許されたが、ナスルを支持して退位することを余儀なくされた。この時ムハンマド3世自身の希望によって数人のファキーフ(英語版)(イスラーム法学者)が退位を正式に承認した。ムハンマド3世は退位当初グラナダ郊外のアルカサル・ヘニル(英語版)に住んでいた。ある逸話によれば、カラスがアルハンブラ宮殿からムハンマド3世についてきたといわれている。そして短い期間の後に海岸沿いの町であるアルムニェーカルに移った。 その後、スルターンのナスルが1310年11月末に重病に倒れたことから王室の評議会においてムハンマド3世の復位が決定され、年老いて盲目となっていたムハンマド3世は急遽アルムニェーカルから輿に乗せられて宮廷へ運ばれた。しかしながら、到着したときには既にナスルは回復しており、ムハンマド3世を復位させようとする計画は未遂に終わった。ムハンマド3世はアルハンブラ宮殿のダール・アル=クブラ(「大きな家」の意)に幽閉され、さらには殺害されたという噂が流れた。この暗殺の噂はアブー・サイード・ファラジュとその息子のイスマーイールが起こした反乱の原因の一つとなり、最終的には1314年にナスルが退位し、イスマーイールがイスマーイール1世(在位:1314年 - 1325年)としてスルターンに即位する結果となった。また、ナスルがイスマーイールの反乱に対処していた最中の1313年12月か1314年1月にグラナダでムハンマド3世を復位させようとする別の反乱が起こった。そしてムハンマド3世は1314年1月21日(ヒジュラ暦713年シャウワール月3日)にダール・アル=クブラのプールで溺死させられた。歴史家のフランシスコ・ビダル・カストロは、この反乱がきっかけとなり、ナスルが反乱を終わらせるためか、反乱が終わった後の処罰として兄を殺害したのではないかと推測している。遺体はアルハンブラ宮殿のサビカの丘に祖父のムハンマド1世と並んで埋葬された。
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