退位、洗礼、そして死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/22 14:36 UTC 版)
688年、キャドワラは退位し、ローマへと巡礼の旅に出立した。恐らくはワイト島攻略の際に追った傷がもとで死を悟ったからであろうと思われている。彼は洗礼を受けた事はおらず、ベーダが言うには、「祝福されたキリストの使徒の神殿にて洗礼の清めを受けるという特権を」望んだという。途上彼はフランスのカレー近郊のサメー(Samer)に立ち寄り、この地の教会の設立に必要な金銭を与えた事、現在では北イタリア、ランゴバルド人の王クニペルトの王宮に立ち寄った事が分かっている 。ローマでは教皇セルギウス1世のもとで(ベーダによれば)復活祭前の土曜日洗礼を施され、洗礼名としてペテロの名を授かり、すぐに「いまだ洗礼の白衣をまとった姿で」没したと伝わっている。遺体は聖ペテロ教会にて埋葬されたと言う。ベーダの『イングランド教会史』と『アングロサクソン年代記』ともに彼の命日は4月20日と伝えているが、後者のみキャドワラは洗礼の7日後に没したと伝えている。この年の復活祭前の土曜日は4月10日になるので、若干ずれがある。彼の墓碑には「サクソン人の王」と書かれていたと言う"。 キャドワラが688年に出立している事からイングランド南部は社会的に不安定となったと思われる。キャドワラの後継者イネは726年に退位、西サクソン王族系譜目録ではイネの統治は37年との事より、彼の登位は688年ではなく689年となる。この事はキャドワラの退位からイネの登位までの間に不安定な時期があった事が示唆されている。688年、ケント王国の王位は再び変わり、明らかにマーシア王国の庇護下にあるオスウィネが王位に登る。そしてケント王国はキャドワラ退位後は東サクソンの影響を受けるようになった。
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