講演会の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:33 UTC 版)
リースは提供された写真を保管しており、それをイラストエッセイとして雑誌に投稿しようとしていた。しかし、『ハーパーズ・ニュー・マンスリー(Harper's New Monthly)』の編集者に写真は好きだが、文章は好きではないと言われ、違う作家を見つけると言われた時、リースは雑誌社に失望し、公衆に直接訴えることに興味を持った。そこで、彼は幻灯用のガラススライド板をつくり、ニューヨーク市内の教会を回ってスラムの実態に関する講演会を開いた。 しかしこれは簡単なことではなかった。教会が会場だということは決まっていたが、リース自身の教会を含む、いくつかの教会は反対し、講演が礼拝者の感情を害するか、もしくは裕福で権力のある地主の感情を損なうことを懸念した。しかしながら、市宣教協会(City Mission Society)のアドルフ・シャフラー(Adolph Schauffler)とジョサイア・ストロング(Josiah Strong)がリースの講演会のスポンサーとしてブロードウェイ・タバナクル教会(Broadway Tabernacle church)を手配した。資金が足りなかったので、保健当局の事務官であったW・L・クレイグ(W.L. Craig)とも手を組んだ。 リースとクレイグの、幻灯機を用いた講演はほとんど金にならなかった。しかし、二人ともリースの伝えるべきことに接する人々の数を非常に増やし、またリースは変化をもたらしうるような力を持った人々に合うこともできるようになった。特にチャールズ・ヘンリー・パークハースト(Charles Henry Parkhurst)や『スクリブナーズ・マガジン(Scribner's Magazine)』の編集者といった人々であり、後者はリースに写真付き記事の掲載を申し出た。 リースの講演会ではスクリーンに鮮やかなスライド映像が大きく投影され、人々に印刷された写真以上に衝撃を与えた。加えて、彼は講演会をできる限り劇的なものに仕立てた。会堂の暗闇の中でスポットライトの下、リースは二時間かけて講演しながら100枚のスライドを上映した。スライドは当時最新の投影機で奥行きと臨場感のあるステレオ映像となり、ディゾルヴ装置で板が切り替えられた。演出の上ではコルネットやゴスペルなどの音楽を用いたほか、聖書や福音書の一節の朗読や祈祷、またスライドにキリストの絵を挿入することもあったという。 次第に全国各地から相次いで公演依頼が届くようになり、1893年には中西部を回る大規模な講演旅行を行った。1900年には初めて西海岸に足を伸ばし、亡くなる前年の1913年までスライドを用いた講演会を毎年こなしていた。後年は映画の登場で人気に翳りが差していたものの、書籍自体に勝る影響力を持っていたことが指摘されている。
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